楠龍造『龍樹の仏教観』サポートページ企画です。今回は如来蔵思想について解説します。

楠龍造『龍樹の仏教観』では、ごく僅かですが、如来蔵についての言及があります。
例せば般若部の諸経典は、諸法皆空の思想を代表し、楞伽経、解深密経、勝蔓経等は、如来蔵を以てその根本思想となすがごとく、正確に諸経典の思想を、分類叙列せんこと、急務の一つたることを疑わず。
楠龍造『龍樹の仏教観』
如来蔵思想は、中観派や唯識派、華厳宗や浄土宗などとは異なり、独自の宗派を形成することはありませんでした。しかし、仏教思想史においては、それらに比肩し、独自の個性を持つ重要思想のひとつであり、「煩悩に覆われた凡夫が、なぜ仏になることができるのか」という問いへの、大乗仏教からのひとつの回答でもありました。
如来蔵とその源泉
「如来蔵」(tathāgata-garbha)とは、「衆生は如来を蔵している」という考えであり、すべての人は本質的に、如来=仏になる可能性を秘めている、ということを説きます。

高崎直道は、如来蔵思想の形成に影響を与えたものとして、『法華経』の一乗思想と『華厳経』の「如来性起品」、そして『般若経』を挙げます。
空の思想を説く『般若経』と如来蔵思想は一見すると相反するようにも思われますが、『般若経』は空の思想を説く代表的経典であると同時に、「仏による衆生救済」を説く大乗仏教の勃興者でした。それゆえ、「『一切法空』『諸法無自性』であるならば、どこに仏の存在があり、衆生の救済があるのか」という問いが必然的に生じ、これに応えようとする批判的継承者が如来蔵思想でした。
一方、『法華経』は、大乗における差別思想を批判し、万人が仏になれることを説きました。
さらに『華厳経』「如来性起品」では、仏が法身として捉え直され、「仏の法身が一切衆生の中に遍満する」と考えられるようになります。しかしそれは煩悩によって覆い隠されており、修行によって見出されます(法身顕現)。
如来蔵思想は、『般若経』『法華経』『華厳経』という三つの源泉が合流したというよりも、思想的な問題の収束として、形成されていったものと言えます。

如来蔵思想の起源?:如来蔵三部経
「如来蔵」という言葉の初出は『如来蔵経』であるとされ、高崎はこれに『不増不減経』、『勝鬘経』を加えて、「如来蔵三部経」と名付けました。
『如来蔵経』は、衆生の中に如来が蔵されているという思想を、九つの譬喩などによって具体的に説明します。ここでは、すべての衆生の内に如来が存在するという発想が非常に明確に表現されています。
<九つの譬喩>
- 蓮華中の如来
- 蜂に守られた蜜
- 籾殻に覆われた穀粒
- 糞便の中の金塊
- 貧者の家の地下に隠された財宝
- 種の中の芽
- 朽ち布に包まれた如来の像
- 貧窮落魄した女が身ごもる未来の転輪聖王
- 焼粘土の鋳型の中の金像
『不増不減経』は、『如来蔵経』が示した「内在する如来」を、さらに推し進めて世界のあり方(存在論)と結びつけ、哲学的に深めました。迷いの中にいる「衆生界(生きとし生けるものの世界)」と、煩悩に覆われた「如来蔵」、そして悟りの真理そのものである「法身」の三者は、表現が異なるだけで本質的に同一であると説きます。
『勝鬘経』は、在家女性である勝鬘夫人の説法という形式をとり、如来蔵の構造を極めて精密に論証しました。如来蔵を一乗や法身などと結びつけるとともに、煩悩に汚されている側面(空如来蔵)と、煩悩から離れた功徳が満ち満ちている側面(不空如来蔵)の両面から如来蔵を説明し、「如来蔵こそが、迷い(生死)と悟り(涅槃)の両方を成立させている根本基盤である」と結論づけました。
『如来蔵経』『不増不減経』『勝鬘経』の三経典が「如来蔵三部経」とされるのは、如来蔵思想の完成形とされる『宝性論』(後述)において、特にこの三経典が重視されており、『宝性論』へと向かって整備されていく、如来蔵思想の基盤を築くものとされたためです。

如来蔵思想の起源?:『涅槃経』
ただ、言葉としての「如来蔵」の初出が『如来蔵経』であるとしても、概念的・思想的には『涅槃経』がそれに先行するのではないか、とする議論があります。
近年では、ラディッチが、それまで「傍系」と見なされていた『涅槃経』こそ如来蔵思想の生みの親であるとし、高崎直道が示したいくつかの基本的理解に修正を迫るに至っている(二〇一五)。
鈴木隆泰『内在する仏 如来蔵』
この長大な論文においてラディッチは、如来蔵思想を説く経典のなかでは『涅槃経』が成立時期としてもっとも古く、『涅槃経』に説かれている「如来蔵大経」とは、現存する『如来蔵経』ではなく、『涅槃経』自身をさすもので、この経典において如来蔵と仏性の概念が出現したと結論している。これによって高崎が提唱した『如来蔵経』『勝鬘経』『不増不減経』という「如来蔵三部経」の歴史的先行性は斥けられ、如来蔵思想の起源は再考を迫られることになった。
下田正弘「第一章 如来蔵・仏性思想のあらたな理解に向けて」『シリーズ大乗仏教8 如来蔵と仏性』
高崎は、如来蔵三部経から『宝性論』への流れを如来蔵思想の主要な系統とする一方で、『涅槃経』とそれに連なる経典群(『大雲経』『大法鼓経』『央掘魔羅経』)を「傍系」と位置づけました。
というのも、涅槃経系統は、如来蔵思想と密接な関係を持ちながらも、まず「仏性(buddha-dhātu)」を中心的な概念として発達した系統の異なる思想と考えられたためです。

『涅槃経』の成立は『如来蔵経』に遅れ、そこには「如来蔵」という言葉も見られますが、「一切衆生悉有仏性」(一切の衆生はことごとく仏性を有する)という言葉に代表されるように、より積極的には「仏性」という言葉が用いられ、この言葉は後代に至るほど、如来蔵と同一視されていったとされます。
ところが、マイケル・ラディッチ(Michael Radich)は、The Mahāparinirvāṇa-mahāsūtra and the Emergence of Tathāgatagarbha Doctrine(「『涅槃経』と如来蔵思想の出現」)において『涅槃経』のかなり古い層に、如来蔵思想の核心的な構造がすでに存在していることに着目し、『涅槃経』こそ、現存する文献の中で最も早い如来蔵経典である可能性が高いことを指摘しました。
『如来蔵経』の成立は3世紀頃、『涅槃経』(全体)の成立はそれから遅れて3~5世紀頃と考えられますが、ラディッチは、『涅槃経』の古層はさらに古く、1世紀後半から2世紀中葉の成立と推定します。
これらのことから、「如来蔵」という概念が、のちに「仏性」という概念と融合していったという方向性だけではなく、「仏性/仏の本質」そのものをめぐる初期の議論の中から「如来蔵」という表現が生まれてきた可能性を考える必要が出てきました。

ラディッチに従えば、『涅槃経』は「傍系」どころか、如来蔵思想の成立過程を考えるための最重要文献のひとつとなります。
『涅槃経』においてもうひとつ注目したいのが「一闡提」という概念です。これは伝統的に「仏の教えを信じず、善根を断って、成仏する因縁をもたない者」のことを指します。そして、一闡提も仏性を持つのかは、『涅槃経』のテーマのひとつです。
『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」の考えに従えば、一闡提も仏性を持っているはずですが、仏性を持っているのならば一闡提ではない、ということになってしまいます。
これに対し『涅槃経』では、一闡提は、善根が断たれているが、仏性は断たれておらず、仏性が顕現していない状態なのだと説きます。しかしこのような説明は、万人成仏の可能性を堅持できても、如来蔵・仏性思想が持つ「修道論的課題」をさらに深い闇に落とすことになります。
「修道論的課題」とは、「衆生に仏の本質があるのなら、修行する必要はないのではないか」(修行無用論)という問題です。この問題については後でまた触れようと思います。
ここでは詳述は避けますが、『涅槃経』においても、実は古層部分では一闡提の成仏可能性に対して否定的であり、成立後期に向かうほど肯定的になる傾向が見られます。
如来蔵思想の完成形:『宝性論』
これまで諸経典に分散して展開されてきた「如来蔵・仏性・法身・仏の功徳・成仏可能性」などを、体系的な理論として整理したのが『宝性論』です。
『宝性論』は文字通り、経典ではなく、後世の人々が「如来蔵思想とは何か」を理解するための基本的な理論的枠組みを提供した論書であり、如来蔵思想の中心的なテキストと目されています。
しかし『宝性論』の著者については定かでなく、中国の伝では堅慧(サーラマティ)、インドの伝では弥勒(マイトレーヤ)の作とされます。
初期の大乗経典では、空、一乗、如来種姓、仏性、法身、如来蔵などといった諸概念が、それぞれ異なる文脈で展開していましたが、『宝性論』では、それらを明確に、「衆生がなぜ仏になれるのか」というひとつの問題としてまとめ、相互に関連付けています。
そして如来蔵を「法身遍満」「真如無差別」「種姓存在」の三義に捉え、如来蔵思想の理論的体系を構築します。

『宝性論』ではまた、如来蔵が三宝(仏・法・僧)に結びつけられ、三宝が成立する根拠としても位置づけます。そもそも『宝性論』(Ratnagotravibhāga)という経典名は、「宝の種姓の分析」といった意味であり、「三宝はいったいどこから生じるのか?」という問題が、「衆生にはなぜ仏になる可能性があるのか?」という問題とつながっていきます。

鈴木隆泰『内在する仏 如来蔵』は、『宝性論』自身が語る『宝性論』が造られた目的を次のようにまとめています。
以上の「造論の目的」をまとめると、(一)自分は覚れないと怯む心・下劣心に対しては、仏性ありと説いて努める気持ちを起こさせ、(二)自らは発心して、まだ発心していない他者を侮る心に対しては、一切衆生に仏性があると説いて、衆生の全てに師としての尊敬を抱かせ、(三)虚構のものを実在として執着する心に対しては、智慧(般若)によって煩悩の空なることを説いて過失を除き、(四)真実の法をも空(無)として誹謗する心に対しては、如来の後得智によって、不空なる如来の徳性ありと明かし、(五)強い我執に対しては、大慈悲に基づいて自他を平等に愛する者にし、これらをもって衆生を仏位(成仏、仏果)へと進ませるため、ということになろう。
鈴木隆泰『内在する仏 如来蔵』
その他の代表的な経典
ここでは、その他の代表的な経典をいくつか取り上げたいと思います。
まず『大雲経』は、『涅槃経』の古層部分(第一類)から中層(第二類)への橋渡し的な存在であるとされます。また、『大雲経』の中心思想である「如来常住」は、仏塔信仰(ブッダ個人への崇拝)からの完全な脱却、経典信仰への移行を表明したものであり、後述の『大法鼓経』の編纂へとつながっていきます。
『央掘魔羅経』は、殺人鬼でありながら、のちに改心してブッダの弟子となったアングリマーラ(央掘魔羅)を主人公とした経典であり、彼がブッダの大弟子や文殊菩薩などを論破する様子は、『維摩経』の影響を感じさせます。『大雲経』同様に「如来常住」を説きつつ、『涅槃経』第二類を受けて「如来蔵・仏性思想」も説きます。
『大法鼓経』は、『法華経』の一乗思想、『大雲経』の如来常住思想、『涅槃経』第二類の如来蔵・仏性思想の強い影響下に成立しました。『央掘魔羅経』同様、『涅槃経』の後継者でありながら、『涅槃経』を批判的に超克しようとする点で、一線を画します。『大法鼓経』は、如来常住思想への回帰によって、如来蔵思想の課題克服を試みますが、その点は後でまた触れようと思います。
『楞伽経』は、如来蔵思想と唯識思想を接続する独自の立ち位置を採ります。これまでの経典が空性説に一定の距離ないし対立的な姿勢を取るのに対し、『楞伽経』は如来蔵説を「空性と聞いて恐怖する衆生たちに対する方便説」であるという立場を採ります。さらに厄介なのが如来蔵を阿頼耶識(アーラヤ識)と同一視するかのような記述であり、両者は同一対象の別名なのか、唯識派による再解釈なのか、判然としないところではあります。がしかし、その思想的強度は強く、如来蔵=阿頼耶識説はその後、『大乗起信論』などに引き継がれていきます。
中観派と唯識派との関わり
中観派と瑜伽行唯識派は、大乗二大哲学学派と呼ばれ、ともに高度な思想体系を構築し、仏教思想史上において、幾度も衝突し論争を繰り返してきました。その両派の対立において、如来蔵思想との距離感は非常に興味深いものがあります。
『宝性論』において、いったん組織化された如来蔵思想はしかし、その後に、自立した教学体系を維持し続けた形跡が見られない。むしろ、瑜伽行派と中観派という二つの巨大な極の間を行き来しながら、次第に解体してゆく様相を見せる。結論を先取りすると、如来蔵思想は『宝性論』以降、瑜伽行派の学説にさらに接近するが、その後はひるがえって中観派の学説に取り込まれ、空や一乗などの中観教学の要を支える柱の一つに据えられるようになる。
加納和雄「第五章 宝性論の展開」『シリーズ大乗仏教8 如来像と仏性』
『宝性論』の影響下で著された、5~6世紀の経論は、基本的に唯識派に親和的なものであり、如来蔵説と唯識説は、同化とまではいかなくとも、近接し結合していくことになります。先述の『楞伽経』を始め、『密厳経』などの大乗仏典では如来蔵を阿頼耶識と同置しています。
しかし唯識派には、悟りの可能性がない「無性種姓」がいるとする五姓各別説があり、この点において、万人に成仏の可能性があると説く如来蔵思想とは明確に対立し、如来蔵思想はむしろ中観派に親和的になります。
そして実際、中観派は一乗説の根拠として如来蔵説を取り込んでいきます。ただ、如来蔵説には常に、その実体論的解釈、普遍実在性がつきまとっており、中観派には、如来蔵思想をある意味で換骨奪胎し、如来蔵を空性や無自性として捉え直すという考えがあった一方で、如来蔵思想は飽くまで未了義(未完成な教え)であるとする考えもありました。
このことはチベットにおいても引き継がれ、如来蔵を空性と同体視する〈自空説〉と、「如来蔵自体は無為にして空ならざるものであれどそれを取り囲む煩悩のみが空であるとする」〈他空説〉として顕在化しました(加納同前)。
如来蔵=アートマン?
ここで改めて、如来蔵思想の実体論的解釈について見ておきたいと思います。すべての衆生の中にあるという仏とは、つまり個人の究極の主体=〈自我〉ではないのかという疑念が如来蔵思想には常にありました。こうした〈自我〉のことを古代インドではアートマンといい、仏教はこのアートマンを否定する無我説に立つのだから、如来蔵説は仏教の教えに反するのではないかという疑念です。
『涅槃経』は仏性をアートマンであると述べます。しかしただちに、外道(異教)のアートマンとは異なると付言しており、文字通りの無我説の否定というわけではないようです。
『勝鬘経』はアートマン(我波羅蜜)を法身と同置しながらも、如来蔵とは区別しており、『宝性論』の本頌もこれを継承しています。『宝性論』の偈釈はこれを受けて、「アートマンを、我と無我の対立という戯論が滅せられ鎮められた状態のことを指すとして新たな解釈を付加」しています(加納同前)。
『大法鼓経』は、世俗のアートマンを否定しつつも、より積極的に真のアートマンを肯定しています。しかし完全態としてのアートマンは如来しか持ち得ないため、衆生は不完全なアートマンしか持っておらず、これが如来蔵であるといいます。このため『大法鼓経』は空性説に対決的な姿勢をとります。
一方、中観派のチャンドラキールティ(月称)は、『楞伽経』を引きつつ、如来蔵説は方便として取り入れられたものとして未了義とし、空性説や無我説と明確に区別しています。
ここでは詳しく触れませんが、松本史郎らによる批判仏教も、基本的にはチャンドラキールティの系譜を継ぐもので、如来蔵思想を「基体説(dhātu-vāda)」と呼び、仏教の根本教義に反するものとして強く批判します(松本史郎『縁起と空 如来蔵思想批判』)。
空性説を乗り越える「有」の思想?
鈴木隆泰『内在する仏 如来蔵』は、如来蔵思想には、修道論的課題と構造的課題があるとし、『大法鼓経』が両課題を一挙に解決しようとする試みであったとします。
修道論的課題とは、先にも触れた通り、「衆生に仏の本質があるのなら、修行する必要はないのではないか」(修行無用論)という問題であり、構造的課題とは、「仏の清浄な本質を持っているのに、なぜ煩悩によって不浄であるのか」という問題です。
従来の如来蔵系諸経論が、万人成仏の根拠として「一切衆生への如来法身の内在」を説いたのに対し、『大法鼓経』は、「如来法身の内在」を否定し、如来常住思想に基づいて、如来蔵・仏性を未完のアートマンと捉えることで、両課題を克服し、万人成仏の可能性を保証します。
もちろん、こうした考えは、アートマン肯定論であり、空性説・無自性説・無我説への批判となり、反仏教的であるとの批判もあり得るわけですが、仏教思想における「空」の思想(あるいは「無」の思想)と「有」の思想との相剋における「有」の思想側からの反論の、ひとつのバリエーションでもあります。
そしてそれは単なるバリエーションであるのみならず、空性説の再解釈であり、『般若経』に始まる空性説や無我説への強いコミットメントに対する、「有」の思想からの超克であるという意味でも興味深いものと思われます。
結局、如来蔵思想とは何なのか
以上を踏まえると、如来蔵思想を単純に、「人間の中には仏がいるという思想」と定義するだけでは不十分であり、より正確には、如来蔵思想とは、煩悩に覆われた現在の衆生と、究極的に清浄な仏との関係を、「衆生の内に如来となる根拠がある」という形で説明し、一切衆生の成仏可能性を基礎づけようとした大乗仏教の思想である、とまとめることができます。
そしてその思索の過程の中で、大乗仏教の始源である『般若経典』系の空性説や無我説に対する解釈刷新を試みる思想へと成長し、大乗の本義のひとつである衆生救済の原理を構築するものであったと思われます。
参考文献









コメント