『新龍樹伝の研究』サポートページ企画です。『新龍樹伝の研究』の著者・寺本婉雅について解説します。

寺本の前半生は、チベット入国を目指す探検者であり、かつまた、国際政治の舞台裏で活躍する姿は、「外交手腕に富む行動派人間」とも、「諜報活動のボランティア」であるとも評されました。
一転、後半生では『新龍樹伝の研究』をはじめ、仏教学やチベット学の研究に尽力することになります。

出身地
寺本婉雅は、1872年(明治5年)生まれ。出身地について、『大谷学報』の追悼記事では、「滋賀県蒲生郡鐘山村に生る」としていますが、『求道と女性』では、自ら「私の故郷は尾州海東郡(今の海部郡)犬井村」であるとしています。犬井村は市町村合併などを経て、現在の愛知県愛西市の一部に当たります。
しかし、寺本没後に、弟子の横地祥原がまとめた『蔵蒙旅日記』収録の「寺本婉雅略年譜」では「愛知県海東郡大野村にて長男として生る」と記載されています。
また、晩年の寺本とゆかりのあった富山県の城端町(現在の南砺市の一部)の歴史を著した『城端町史』では、寺本は「滋賀県蒲生郡鏡山仏厳寺の嫡男として生れた」とあります。
能海寛を主人公とした小説『暁の密使』では寺本を「滋賀県に生まれる」としていますが、『チベットからの遺言』では「愛知県海東郡大野村」で生まれた、としており、はっきりしません。
チベットへ
寺本は、1895年に真宗大学(現在の大谷大学)に入学しますが、卒業を間近に控えた1898年に大学を中退し、チベット(西蔵)へ向けて旅立ちます。この頃、チベットにはインドで失われた仏典が多数温存されていると考えられていました。それにもかかわらず、未だ誰一人として入蔵(チベットに入国)した日本人がいないという状況であったため、チベット探索を目指す者が幾人もおり、寺本もその一人だったのです。
1898年7月2日、神戸を出港。上海を経て8月4日に北京着。翌年3月4日、北京を発ち、上海、重慶、成都などを経て、6月27日に入蔵の玄関口、ダルツェンド(打箭鑪、現在の四川省康定)に到着します。
寺本は、ダルツェンドで同じくチベット入国を目指す、能海寛と合流します。能海は寺本と同じく東本願寺に属していましたが、私費で入蔵を目指した寺本と異なり、東本願寺から正式に派遣された学僧でした。二人は初対面であり、この合流は北京公使の指示によるものでした。
実はもう一人、外務省から派遣された情報部員の成田安輝が合流する予定でしたが、「準備間に合わず、先行してくれ」との連絡があったため、寺本と能海は成田を待たず、チベットの首府ラサを目指してダルツェンドを発ちます。しかし、実は成田は二人に先んじてダルツェンドに入っていたのですが、外務省の手配が不十分ということもあり、入蔵は困難と判断して、すでに重慶に引き返していました。成田の存在は、入蔵が日本仏教の課題のみならず、日本の政治外交上の課題であったことを示しています。
寺本と能海は、艱難辛苦の旅の末、8月11日、パタン(巴塘、バタン)にまで辿り着きます。しかし、そこから先の通行許可が下りず、またそこから先では(欧州列強のアジア進出に対する反発として)排外的風潮が高まっており、外国人が殺害される事件などがあったため、ここで断念せざるを得なくなります。ただ、パタンはダライ・ラマの直轄地であったので、二人はチベット入国を果たした最初の日本人ということになりました。

ちなみにチベットの首府ラサに入った最初の日本人は、河口慧海でした。寺本・能海の中国ルートではなく、インド・ネパールからチベットに入り、1901年3月、ラサに到達します。また、その9ヶ月後、成田安輝が史上二人目の日本人として、ラサに入ります。
陸軍通訳就任とチベット大蔵経の入手
ラサ入りを断念した寺本と能海は、10月1日、パタンから引き返し、22日にダルツェンドに到着。11月2日、別ルートからの入蔵を模索するという能海とわかれた寺本は、帰国の途につき、1900年4月11日、神戸に戻りました。
しかし、折しも中国で義和団事件(北清事変)が起こり、寺本は俄かに国際政治の渦中に飛び込むことになります。入蔵を模索する中で知り合った陸軍第五師団長・福島安正の計らいで、1900年8月、寺本は第五師団の通訳に任ぜられ、再び清国に入ります。しかしこれはただの通訳というわけではなかったようです。
義和団事件とは、清国において、義和団と称する宗教結社が外国人排斥を唱えて起こした暴動で、背景に欧米列強の東アジア進出に対する危機感がありました。清朝政権はこれに同調し、列強に宣戦布告します。この時、北京に取り残された各国外交団や居留民を救出すべく、欧米諸国(米・英・露・仏・独・墺・伊)、及び日本からなる八カ国は、連合軍を編成し、天津、北京を陥落させます。
義和団事件の際の寺本の活動について、江本嘉伸『西蔵漂泊』は次のように述べています。
外交手腕に富む行動派人間である寺本は、北京では清朝皇室に出入りし、醇親王、慶親王、粛親王、李鴻章らと親しく接したことでもわかるように、単なる軍の通訳ではなかった。清朝各代の菩提所でもあった雍和宮をロシア教会の支配から解放、日本軍の管理下におくように仕向け、密かに西安に蒙塵中の西太后のもとへ行き、北京帰還を画策したりもした。各国軍隊の略奪や破壊が横行するなかで、清朝の立場を守り、仏教寺院とラマ僧たちの窮状を救ったこれら一連の寺本の行動は、清朝側におおいに評価されることとなった。
江本嘉伸『西蔵漂泊』
寺本のこのような行動を、僧侶の本分を逸脱した、政治的な野心の表れと見る向きもありますが、他方で、僧侶の立場から各国の政治的思惑を超えて、人命尊重のために奔走した結果とする向きもあります。
寺本は軍務の傍らで、西蔵経典の研究を行う許可を得ていました。この時、戦火の混乱の中、略奪に遭い、ラマ僧たちも逃げ出して荒廃しきっていたチベット寺院、黄寺と資福院で、寺本はチベット大蔵経を発見します。そして慶親王の許可を得て、これを日本に持ち帰ることに成功します。
資福院で発見した大蔵経は、康熙帝の命で刊行された北京版大蔵経と呼ばれるものです。カンギュル(経律部)とタンギュル(論部)を備えたもので、寺本はこれを真宗大学に寄贈しました。黄寺で発見した大蔵経はさらに価値のあるもので、カンギュルしかないものの、永楽版の万暦重版と呼ばれるもので、ラサのデプン寺とセラ寺、中国の五台山にしかないという貴重なものでした。こちらは初め宮中に献ざれましたが、のちに東京大学に移管されました。しかし残念ながら関東大震災で焼失してしまったとのことです。
二度目の挑戦
1901年7月、陸軍通訳の任を辞したのちも、寺本のラサ入りへの情熱は依然として強く、雍和宮の貫主を日本に招き、関係を築くなどしたものの、十分な助力とならず、1903年以来、青海のクムブム寺(塔爾寺)で、モンゴル語やチベット語を学びながら二年の月日を過ごすことになります。
余は此に於てか、深くも決心せり。人事頼むべからず、自ら進んで地を掘らば泉は湧き出づべしと。(寺本婉雅『蔵蒙旅日記』)
一念発起した寺本は、クムブム寺を出て、苦難の末に、1905年5月、ついにラサへの入城を果たします。ラサを目前に見た寺本は日記に次のように記しています。
頂上に達して南方を望むれば、何ぞ図らん、これ寤寝にも忘るること能はざりし拉薩城ならんとは。遙かに釈迦本堂に向て叩頭三拝し奉り、無事安着を祈らぬものはなし。嗚呼前後八年間の辛酸苦心今にして始めて其志を達するを得たり。(寺本婉雅『蔵蒙旅日記』)
河口慧海、成田安輝に次いで、ラサに入った三人目の日本人でした。

帰路はラサからインドに抜けて帰国します。
ダライ・ラマ13世と邂逅
この後、奇しくも、寺本は再び国際政治の渦中に飛び込むことになります。寺本はラサ入りの翌年、再びクムプム寺に滞在していましたが、偶然にもダライ・ラマ13世もクムプム寺を訪れます。13世がクムブム寺を訪れた背景にはチベットが陥った危機的状況がありました。
20世紀初頭、国際社会に帝国主義の嵐が吹き荒れる中、チベットは、南からはインドを植民地化したイギリス、北からはロシアの侵攻に危ぶまれており、ここにチベットの宗主権を主張する清(辛亥革命後は中華民国)が絡むといった状況にありました。ダライ・ラマ13世がロシアに接近していると見たイギリスが突如として軍事侵攻を開始すると、13世はドルジエフら親ロシア勢力の勧めに従い、ラサを脱し、モンゴルのウランバートルへ逃れ、ロシアからの援助を求めます。しかしロシアはロシアで、対内的には「血の日曜日」事件、対外的には日露戦争と、文字通り内憂外患に悩まされており、チベットに向き合う余裕がありませんでした。13世はロシアからの援助が得られず、失意の中、モンゴルや青海を放浪していたのでした。
ラサを出た後の13世の行方をイギリスも清国も把握できていなかったのですが、偶然にも寺本がその所在を知ることになります。話は前後しますが、寺本がラサ入りを果たす前のことです。
寺本婉雅〔……〕は、黒竜江からラサに赴くキャラバンに潜入してラサに向かっていたが、偶然にも一九〇四年九月四日、北上するダライ・ラマ十三世一行と遭遇した。黒竜江のラマはダライ・ラマについていってしまったため、寺本はラサ攻略を諦め、青海のクンブム大僧院に引き返し、北京の日本大使館にダライ・ラマ十三世一行の動静を報告した。当時はイギリスも清朝もラサから消えたダライ・ラマ十三世の所在を把握していなかったため、チベット仏教徒以外でもっとも早くダライ・ラマ十三世の所在を探知したのは寺本であった可能性が高い。
石濱裕美子『物語 チベットの歴史』
先述の通り、1906年10月、ラサ入りを果たしたのちの寺本が再びクムブム寺に滞在していた際に、ダライ・ラマ13世がクムブム寺に入ります。クムブム寺は、ダライ・ラマの属するチベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパの生まれた地に建てられた寺院でした。中国では塔爾寺と呼ばれています。
寺本は13世に謁見し、東本願寺法主・大谷光瑩の書簡、日露戦争の画帖などを献呈しました。そしてその経緯を元首相の大隈重信に報告しています。この時期は第一次内閣と第二次内閣の間で、大隈は公職についていませんでしたが、在野の大物政治家でした。寺本は日本の政治家、外交官、軍人などに広い人脈を構築していたようですが、その詳細は不明です。山口瑞鳳『チベット』は、寺本が「諜報活動のボランティアのような動きを取っていた」と表現しています。さらに寺本の動きを表して、「寺本はいわば、ロシアの密偵とされたダライラマの側近ドルジエフに代わろうとしたのである」といいます。
寺本は13世に、仏教を媒介として、日本・清・チベットの「東洋黄人種」が連帯して、ロシアに対抗すべきと説き、清の指示に従って、北京へ行くことを勧めます。寺本の進言の甲斐あってか、13世は、まずは、1907年11月にクムブム寺を発って、1908年3月に伝統ある仏教の聖地・五台山に入ります。

五台山に入ったダライ・ラマ13世のもとには、各国の公使や民間人が次々と訪れましたが、ここでも寺本は13世に拝謁し、まだ進路を決めかねていた13世に北京に入るよう再度促し、参謀本部次長となっていた福島安正中将からの書簡を献呈しました。また、寺本は五台山で、西本願寺法主・大谷光瑞の弟で名代の大谷尊由と13世の会談も実現させます。東西本願寺はともにチベットに関心を持っていましたが、以後、西本願寺がリードすることになったと言われます。
1908年9月には、寺本の説得叶ってか、ダライ・ラマ13世は、西太后の誕生日に長寿儀礼を行うという名目で北京に入ります。ただ、小林亮介『近代チベット政治外交史』は、「寺本の思い描くシナリオ」通りではなかったと見ます。
こうして、ロシアとの対峙という寺本の思い描くシナリオではなく、むしろ清朝との軋轢への対応という文脈において、ダライ・ラマ側は日本に北京との交渉を進める上での口添え役として期待をかけ、寺本にも協力的になっていた。
小林亮介『近代チベット政治外交史』
いずれにせよ、13世からの信頼を得た寺本は、13世から「トブタン・ゾパ」(トゥプテン・ゾパ)のチベット名と、次のチベット旅行用の「特別保護証明」の書付を授かります。しかし、寺本の「政治的な活動」はここで終わります。1909年1月に帰国した寺本は、以降学究生活に入ります。
学究の道へ
1915年、寺本は大谷大学教授となり、チベット語や仏教学を講義、また京都帝国大学文科大学(のちの文学部)講師を嘱託され、チベット語を教えます。
寺本の学問的業績としてはまず、ボン教教典の邦訳『十万白竜 西蔵古代神話』(帝国出版協会, 1906年)や、チベット僧ターラナータによるインド仏教史『ターラナータ仏教史』(丙午出版社, 1928年)の邦訳、また、チベット語のテキスト『西蔵語文法』(内外出版, 1922年)などの、チベット学についての諸研究、並びにホータン(新疆ウイグル自治区の一部)の歴史を扱った『于闐国史』(丁字屋書店, 1921年)が挙げられます。
また、『西蔵文世親造唯識論』(世親『唯識二十論頌』などの和訳、内外出版、1923年)や、『西蔵伝訳仏所行讃』(世界文庫刊行会, 1924年)、『仏説無量寿経・仏説阿弥陀経』(丙午出版社, 1928年)、『梵漢独対校西蔵文和訳中論無畏疏』(大東出版社, 1937年)、『蔵漢和三訳対校異部宗輪論』(寺本婉雅, 平松友嗣 編訳註 黙働社, 1935年)など、チベット語訳で残る仏典の翻訳なども行いました。
『新龍樹伝の研究』が広げた波紋
寺本の代表的な著作のひとつに『新龍樹伝の研究』(中外出版, 1926年)があります。
寺本は自身が将来したチベット大蔵経などのチベット語文献のうちに、『中論』の著者である龍樹(古龍樹)とは別に、もうひとりの龍樹(新龍樹)の存在を発見します。
実はこうした龍樹複数人説は、すでに大村西崖や河口慧海などにより指摘されていたことなのですが、寺本の研究は、チベット語文献や漢訳文献、さらには当時の西欧の最新研究などを幅広く渉猟している点や、資料の成立年代から、古龍樹を密教の祖師とすることを否定するところなど、より精緻な論証を備えたものでした。
寺本の革新的論考は、その挑発的な姿勢もあって、当時の仏教学界のみならず、広く仏教界に大きな波紋を広げました。本書に寄せられた批判や論争を含め、今日につながる近代仏教学形成の一端を担う画期的な論考といえるでしょう。
黙働会
後年、寺本は富山県城端町の黙働会と関わりを持つようになります。その経緯を『城端町史』は次のように述べています。
寺本が始めて城端へ来たのは、大正十三年城端の文化団体であった平明会の講師として文芸の相馬御風とともに招いたときである。寺本婉雅が旧知であった宗林寺桂香厳の次男昌雄(当時七才)を養嗣子として迎えたので、しばしば城端へ来往するうちに、当地で寺本崇拝の信者達で黙働会を結成し、その講話を聴いたものである。[……]黙働会員は寺本婉雅の遺志を体し、城端地区北野に墳墓を建てた。
寺本は、黙働会の前身、城端仏教求道会や関連組織の黙働社から、『求道と女性』(城端仏教求道会, 1929年)、『生命原理日本哲学』(城端仏教求道会, 1933年)、『愛児はいづこへ 生命の泉』(城端仏教求道会, 1933年)、『行の中道実践哲学 根本仏教縁起観』(黙働社, 1935年)、『黙働聖典』(黙働社, 1935年)、『皇道と仏道』(黙働社等, 1936年)、『無声の招喚 黙働の光』(寺本婉雅 編, 丁子屋書店, 1937年)、『皇軍慰問生死一如の道』(城端黙働会, 1937年)などを出版しています。
これらの著作から窺われるのは、〈行〉(実践)重視の姿勢と、その結果として、戦時体制へと向かう時代背景において、国家主義的な傾向と接続しがちであったということでした。
ただ、能海寛についての思想研究に比しても、寺本婉雅についての研究は少なく、特に学究期以降については極端に研究が少ないため、詳細を語るのは難しく思われます。いくつかの文献にもそのことが指摘されています。
「寺本氏の論文や学問は知られているものの、その人物や事蹟については、従来、資料が不足しており判然としない。」(『善徳寺歴史資料調査報告書』富山県南砺市教育委員会)
「寺本については、[……]まとまった記録がなく、十分な研究がなされていない。資料の不足が寺本に対する扱いを小さくしている。というより、等閑視されていたに等しいであろう。」(三宅伸一郎「日本人初の入蔵者・寺本婉雅に関する新出資料について」)
寺本は1940年12月、病気のため亡くなります。没後、弟子の横地祥原が、遺稿をまとめ、『蔵蒙旅日記』(芙蓉書房, 1974年)として出版します。
また、2006年には、城端・宗林寺と滋賀県竜王町・村岡家に、多くの関係資料が所蔵されていることがわかりました。これらの資料から、さらなる研究が進むことが期待されています。
参考文献

城端町史編纂委員会編『城端町史』

寺本婉雅『蔵蒙旅日記』

薬師義美『雲の中のチベット トレッキングと探検史』

将口泰浩『チベットからの遺言』

江本嘉伸『能海寛 チベットに消えた旅人』
三宅伸一郎「日本人初の入蔵者・寺本婉雅に関する新出資料について」(『大谷學報』87巻第2号)
https://otani.repo.nii.ac.jp/records/924
三宅伸一郎・高本康子「寺本婉雅に関係する「宗林寺資料」「村岡家資料」に対する総合的評価」(『大谷大学真宗総合研究所研究紀要』第34号)
https://otani.repo.nii.ac.jp/records/6363
LIFE VIDEO – ライフビデオ – 先祖のLIFE VIDEO(寺本婉雅)
https://www.youtube.com/watch?v=vHh4XdGqmKM










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