『龍樹の仏教観』サポートページ企画です。今回は大蔵経について取り上げます。
「仏教経典は極めて多く、その数、汗牛充棟も啻ならず。現に日本に存ずるもの、支那清朝続蔵二百七十八部千八百三十三巻あり。支那清朝又続蔵二百六十部千二百四十八巻あり。日本鉄眼版千六百六十八部六千九百五十六巻あり。日本縮刷大蔵千九百四十五部八千五百六十二部あり」(『龍樹の仏教観』)
ここで述べられている「支那清朝続蔵」「支那清朝又続蔵」「日本鉄眼版」「日本縮刷大蔵」はいずれも「大蔵経」のことです。大蔵経(一切経ともいう)とは、数多くの仏教経典を集大成したもののことです。
「支那清朝続蔵」「支那清朝又続蔵」とは、万暦版大蔵経と呼ばれるもので、明朝末の万暦年間(1573-1620)前半から清朝前期の康熙年間(1662-1722)にかけてつくられました。嘉興楞厳寺に板木が集められて印造されたことから「嘉興蔵」とも呼ばれます。正蔵・続蔵・又続蔵の三部からなります。
万暦版以外に、日本の大蔵経編纂に影響を与えたものとして、高麗版大蔵経があります。文字通り、高麗(朝鮮)で造られた大蔵経で、初雕本と再雕本の二つがあります。顕宗二年から宣宗四年(1011-1087)に編纂されたものは、初めて板木を雕造した版という意味で、初雕本と呼ばれます。しかし初雕本はモンゴル軍の侵攻によって焼失してしまったため、高宗二十三年から高宗三十八年(1236-1251)に再び板木を雕造します。これを再雕本といいます。高麗版は校訂に優れ、近代の大蔵経編纂においても底本とされました。
日本初の活字版大蔵経は、天海版一切経です。寛永寺開山の慈眼大師天海が、三代将軍徳川家光の支援を受け、寛永十四年(1637)に着手し、慶安元年(1648)に完成しました。
日本で最初の流布版となったのは、鉄眼版大蔵経(黄檗版ともいう)でした。寛文十一年から天和元年(1671-1681)に、黄檗宗の僧・鉄眼道光によって編纂されました。天海版が幕府肝入りの国家事業であったのに対し、鉄眼版は、一介の僧侶が自ら浄財を集めて膨大な分量の出版を実現したという、驚嘆すべき事績であり、近世の仏教学および各宗派の宗学への直接の影響を与えたのは鉄眼版であったと言われます。
鉄眼版は万暦版を底本としており、万暦版の実質的な覆刻であるとされますが、法然院の忍澂は、鉄眼版の漏脱を発見したことから、高麗版との全面的な対校を行い、その結果を『大蔵経対校録』として出版しました。これは後世の大蔵経編纂に大きな影響を与えましたが、鉄眼版には誤脱が多く、高麗版は善本であるとの評価は、やや誇張されすぎたものであるとの研究もあります。
これまでの大蔵経が木版印刷であったのに対し、日本初の金属活字による大蔵経は『大日本校訂大蔵経』です。島田蕃根と福田行誡によって編纂されました。活字・書物ともに小型であることから、縮刷大蔵経、略して縮刷蔵、縮蔵などとも呼ばれます。明治十四年(1881)に刊行が開始され、明治十七年(1884)に本編の刊行が終了します(翌十八年に目録が刊行)。縮蔵は高麗再雕本を底本とし、宋思渓蔵、元晋寧寺蔵および鉄眼版を対校本として校合されています。また、縮蔵では智旭『閲蔵知津』の分類に従って、経・律・論の三蔵に、秘密蔵と雑蔵を加えた五蔵をもって組織し、雑蔵に日本撰述を収録する形式になっています。

ちなみに、刊行完了50年後の昭和十年(1935)に再校訂を施した昭和再訂縮刷大蔵経が刊行されますが、予定された全419冊は完結しないままに終了したようです。
次いで明治三十五年から三十八年(1902-1905)にかけて、『日本校訂大蔵経』が刊行されます。『大日本校訂訓点大蔵経』や『麗明対校全部訓点縮刷大蔵経』などともいいますが、表紙題簽などに「卍」の表章を用いていたために、卍蔵経(卍字蔵経、卍正蔵)という名で知られています。忍澂によって高麗版と対校された鉄眼版を底本として、前田慧雲と中野達慧が中心となって編纂されました。

明治三十八年から大正元年(1905-1912)にかけて未収録の仏典、特に中国撰述の典籍を集めた『大日本続蔵経』(卍続蔵)も刊行されました。卍正蔵に比べ、卍続蔵は後述の大正蔵に未収録の典籍もあることから、今日でも利用されることがあります。昭和五十年から平成元年(1975-1989)には、大幅な改訂ではありませんが、体裁の変更や補充が行われた『新纂大日本続蔵経』が出版されています。
大楠順次郎・渡辺海旭を都監として編纂された『大正新脩大蔵経』(大正蔵)は、今日に至る決定版的な大蔵経となっています。大正十三年(1924)から刊行が開始され、昭和三年(1928)に正編55冊が完結し、のち続編30巻、図像部12巻、『昭和法宝総目録』3巻を増補され、昭和九年(1934)に全100巻が完結します。従来の大蔵経の出版が仏法の興隆を目的としていたのに対し、大正蔵は学術研究を目的としており、高麗版を底本として、宋・元・明版の大蔵経をはじめ、多くの校本を用いて校合を行っている点に特色があります。また、分類に関しても、従来は『開元釈教録』や『閲蔵知津』などに基づいていたのに対し、大正蔵は、大乗小乗の区別を廃し、近代仏教学の成果を基礎とした分類を用いています。

大正蔵は決定版的とはいえ、誤植をはじめ、少からぬ誤読、句読の誤り、(敦煌本等の録文において)校勘の不備が指摘されており、完全無欠というわけにはいかず、過信は禁物です。
国訳大蔵経
これまでの漢訳大蔵経以外に、漢訳経典の日本語訳を目指した叢書に次のようなものがあります。
『国訳大蔵経』(国民文庫刊行会)は、大正六年から昭和三年(1917-1928)にかけて刊行され、全31冊に渡って、主要経論を書き下したものになっています。
『昭和新纂国訳大蔵経』(東方書院)は、昭和三年から昭和七年(1928-1932)にかけて刊行され、全48冊に渡って、主要経論の外、各宗派の宗典を宗典部も合わせて収めています。
『国訳一切経』(大東出版社)はより大規模なもので、「印度撰述部」全155冊が昭和五年から昭和十一年(1930-1936)に刊行され、「和漢撰述部」全102冊は、昭和十一年から刊行が始まって、中断を経つつも、昭和六十三年(1989)に完成します。
『新国訳大蔵経』(大蔵出版)は、最新研究を注釈に盛り込んだ現在継続刊行中の国訳大蔵経で、「インド撰述部」が1993年から刊行開始され、現在52巻53冊が出版されています。2011年からは「中国撰述部」が刊行され、現在7巻が出版されています。『龍樹の仏教観』における『中論』からの引用に付した読み下し文はここから引用しています。
日本撰述・宗門系全書
近代における漢訳大蔵経の出版と同調するように、日本で興った各宗派の宗祖や高僧の撰述を集めた全集、宗門・宗派に関わる典籍を収集した全書も出版されるようになりました。
日本撰述の典籍は卍蔵経では収録されなかったため、これを補うために、松本文三郎が編纂会長、中野達慧が編者となって、『日本大蔵経』(1914-1920)が編纂されます。当時、この「大蔵経」という書名が不遜であるとの批判が、村上専精によってなされたという騒動があり、当時の大蔵経神聖視の様子が伺われます。
日本撰述集成の代表的なものとして、『大日本仏教全書』(1911-1922)があります。南條文雄を会長に、高楠順次郎、望月信亨、大村西崖を主事として設立された仏書刊行会によって発行されました。大正蔵と同じく、学術研究を目的としており、広範囲の文献を収録しているため、様々な研究の典拠史料として今日でも利用されています。
宗門系の全書として、『浄土宗全書』(1907-1914)、『真宗全書』(1913-1916)、『真宗体系』(1916-1924)、『真宗叢書』(1928-1931)、『新編真宗全書』(1976-1977)、『天台宗全書』(1935-1937)、『続天台全宗書』(1987-2016)、『真言宗全書』(1933-1939)、『続真言宗全書』(1975-1988)、『禅学体系』(1910-1915)、『国訳禅宗叢書』(1919-1935)、『禅学典籍叢刊』(2001)などがあります。
余談ながら、『真宗全書』は、卍続蔵の刊行完了によって、職を失う恐れのあった印刷職工のために、中野達慧が企図したという経緯があります。
データベース
近年では、仏典の電子化が進み、テキストデータベース化され、ネット公開されるようになっています。最も代表的なものに、「大正新脩大蔵経テキストデータベース」(SAT)があります。SATは大正蔵全85巻および図像部12巻がデジタル化され、ネット上で全文検索することができます。
また台湾の中華電子佛典協會(CBETA)による「電子仏典集成」は、日本撰述部を除く大正蔵と、大正蔵との重複を除く卍続蔵がデータベース化されています。この外、両大蔵経に収録されていない万暦版大蔵経(嘉興蔵)や高麗版大蔵経などからの収録もあります。
万暦版大蔵経については、特に東京大学総合図書館所蔵『万暦版大蔵経(嘉興蔵/径力蔵)』がデジタル化され、19万枚超の版画画像がデジタルアーカイブとして公開されています。
参考文献

上田天瑞『佛教の聖典』(高野山出版社, 1948)
大蔵会編『大蔵経 : 成立と変遷』(百華苑, 1964)
朴奉石「大蔵経目録とその分類」(『文献報国』第四巻第八号収録, 朝鮮総督府図書館, 1938)
常光浩然「中野達慧」(『明治の仏教者 下』所収, 春秋社, 1969)

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