『功利主義論』に言及された人々(9)ルーウェリン・デイヴィス

『功利主義論』サポートページ企画です。今回はルーウェリン・デイヴィスについて取り上げます。

ルーウェリン・デイヴィス(John Llewelyn Davies, 1826-1916)は、聖公会の牧師で、産業革命による社会的不平等や貧困をキリスト教的価値観に基づいて改善することを目指す、キリスト教社会主義運動などにも関わった、社会改革者でもありました。

彼の名前は、第二版で追加された註の中に登場します。

その知性と道徳的公正さを認めるにやぶさかではないある反対者(J・ルーウェリン・デイヴィス牧師)は、この一節に反対し、こう述べた。「疑いもなく、溺れた人を助けることのよしあしは、なされることとともに、動機によっても決定される。(後略)」(ミル『功利主義論』)

恐らく『功利主義論』の初版を読んだルーウェリン・デイヴィスからの批判に応えたものなのでしょうが、その批判の出典は不明です。ただ、この第二版の註におけるミルの反論に対する再批判が、ルーウェリン・デイヴィスの著作『神学と道徳性』の中に見られます。

批判と反論

それを見る前にまずは、ルーウェリン・デイヴィスの批判とそれに対するミルの反論を見ておきたいと思います。

ミルは行為の正しさにおいて、動機は重要ではないとして次のように述べます。

溺れている人を助ける人は、動機が義務感であろうが報酬目当てであろうが、道徳的に正しい。自分の信頼する友人を裏切る人は、その行為によってほかの友人への大きな恩義に報いることになろうとも、罪を犯したことになるのである。(『功利主義論』)

これに対し、ルーウェリン・デイヴィスは動機の重要性を指摘します。以下は『功利主義論』からの孫引きです。

「ある圧政者がいて、その圧政者の敵が、彼から逃げるために海に飛び込んで、単に、より強烈な拷問をその人に与えるために、溺れていることから助けた場合、「道徳的に正しい行為」としてこの救出を、明快に語ることになるのだろうか。また、もう一方については、倫理学の研究に蓄積されたひとつの例にしたがって、こう考えてみよ。友人から得た信頼を守りとおすことが、友人自身か彼にかかわりのある誰かを必然的に傷つけるために、その信頼を裏切ったという人がいても、功利主義はその裏切りを、卑しい動機からなされた場合と同じように『罪』と呼ぶことを強要するのだろうか」

これに対するミルの反論は、ルーウェリン・デイヴィスが行為の「動機」と「意図」を混同している、というものでした。では、ミルがベンサムから継承した、この「動機」と「意図」の区別とはどういったものでしょうか。

「動機」(motive)とは、行為者が行動を起こす理由や内的な感情・欲望のことであり、ベンサムは「動機」は行為の評価に直接影響しないと考えました。一方、「意図」(intention)は、行為者が行動によって達成しようとする目標や目的のことであり、行為の結果を評価する上で重要な要素であると考えました。

つまり、先の例で言えば、後でより酷い拷問を与えるために、溺れている人を助けるという行為は、悪い「動機」からなされる行為であるかどうかはともかく、悪い「意図」からなされる行為であるが故に、悪い行為であるということになります。救助活動は、本来の「意図」を達成するための最初のステップに過ぎない、とミルは表現します。

ルーウェリン・デイヴィスの再批判

こうしたミルからの反論を受けて、ルーウェリン・デイヴィスは『神学と道徳性』(Theology and morality)において、再批判を行います。

まず、彼は、「動機と意図を混同している」という批判は、ミル自身にも当てはまるのではないかと指摘します。ミルが「動機」と呼ぶものは、ベンサムが「意図」と呼ぶものに近く、ベンサムは「意図は行為そのものまたはその結果に関するものである」と述べているのだから、報酬目当てに溺れている人を救った人の場合、意図は、「お金を稼ぐこと」(to make some money)であり、動機は「金銭欲」(desire of money)なのではないか、と言います。

また、もうひとつの例(友人の恩義に報いるために、他の友人を裏切る行為)についても、ミルのいう「動機」は、「意図」ではないかと指摘します。すなわち「友人の恩義に報いるため」というのは、裏切り行為の動機ではなく、意図である、というのです。そして、裏切り行為はその意図を達成するための「最初のステップ」に過ぎないのではないか、というわけです。

「問題となるのは、行為を動機や性向(disposition)から切り離して、それに完全な道徳的性質を与える方法である」と言います。このことはベンサムにおいては、それほど問題にはなりませんでした。なぜなら、ベンサムは、ある行為が「有害」(pernicious)であるかを問題にしたのであって、それが「邪悪」(wicked)であるかを問題にしていないからです。しかしミルは、悪意を持って悪人によってなされた行為を「善い行為」と呼ぶことをためらっているように思われる、とルーウェリン・デイヴィスは言います。

ミル自身、動機が行為者の価値には大いに関係する、ということを認めていますが、ルーウェリン・デイヴィスは、行為の道徳性を判断する際にも、動機は必然的にその判断に入り込むのだと主張します。そしてキリスト教徒は常に一貫してそのように考えてきたのであり、キリスト教徒にとって行為の評価は、動機が「神性の最高の属性」(highest attributes of the Divine nature)と調和しているかによっても判断されるのだと述べます。

以上が、ルーウェリン・デイヴィスの再批判です。なかなか鋭いところを突いているように思われますが、如何でしょうか? ベンサムとミルの違い、特にベンサムの硬直的な人間観に距離をおいたミルの折衷的立場がベンサムになかった問題を生み出しているという指摘などは興味深く思われます。

動機と意図:再考

このルーウェリン・デイヴィスの再批判が妥当なものかどうかを検証するためには、まずは動機と意図の区別とは何なのかについて、再度詳しく見ていきましょう。

動機と意図の区別のわかりやすい例は、慈善行為ではないかと思います。ミルは、慈善行為の「動機」は、利己心であり、「意図」は他者の幸福の増進であると考えました。その人を内的に動かしている欲望は利己心ですが、彼が達成しようとしている目標は他者の幸福の増進です。そして、行為の道徳性を判断する際に考慮されるのは、飽くまで行為の「意図」(他者の幸福の増進)であって、「動機」(利己心)ではないとします。

ジョン・プラムナッツ『イギリスの功利主義者たち』は、ベンサムにおける動機と意図を次のように定義します。「動機は、行為を刺激した快楽への欲望もしくは苦痛の除去への欲望」であり、「意図は人が自分の行為にともなって生ずると予測している行為の結果」であると。

ベンサムは、動機それ自体は善くも悪くもなく、道徳的に中立であると主張し、多くの反発を招きました。そしてその多くが「行為の道徳性は行為の源泉である動機と無関係ではありえない」というものでした。しかし、プラムナッツ前掲書は、ベンサムと批判者たちの差異はそれほど大きくないと言います。

ベンサムが動機は道徳的に中立であると語ることの意味は、どんな種類の欲望も善悪いずれを問わず意図の源泉でありうる、ということである。人は食欲をもっていよう。そして、飢えを満たすために食物を自分の食料庫からえるかもしれないし、隣人から盗むかもしれない。いずれの場合にも欲望は同じ欲望である。だが、その欲望によって促進された行為はまったく違った行為である。

ただ、ベンサムのいう「動機」が、その状況やそれが生みだす意図をまったく考慮しないものであることに注意を促します。

ベンサムが動機は道徳的に中立であると語るとき、彼は動機が生ずる状況も動機が生みだす意図も考慮しないで、むきだしの欲望のことを考えている。しかし、われわれが行為の道徳性はとりわけ動機に依存すると語るとき、われわれはいつも状況を考慮にいれている。状況を考慮にいれなければ、忘恩と無関心、悪意と苦痛〔刑罰〕を科そうとする欲望、称賛とへつらい、慈愛とあまやかしなどを区別できないだろう。(〔 〕内引用者)

ベンサムが、行為の道徳的評価として、結果のみを重視し、動機を重視しないという帰結主義の立場を純粋に貫けるのは、上記のように、動機をその状況を取り払った「むきだしの欲望」として捉えることによって可能になっているとも言えます。換言すれば、(広義の)動機から意図を取り除いたものを(狭義の)動機と呼ぶことによって、行為の道徳判断に動機は無関係と言えるようになる、というわけです。

ベンサムが広義の動機から意図を取り出し、意図だけにフォーカスしたのはなぜでしょうか。それは、意図には結果予見が含まれているから、あるいは結果の予見そのものであるから、です。前述のプラムナッツによる動機と意図の定義を思い出してください。彼は意図を「人が自分の行為にともなって生ずると予測している行為の結果」としていました。また、(ベンサム自身による定義がかえって読者の理解を阻むため)この定義が「たとえ彼〔ベンサム〕の示したものとはほとんど似ていないとしても、妥当なものとみなさなければならない」といい、「それゆえわれわれは、動機とは行為がそれを満足させるために行なわれるその欲望、意図とは行為の予測された結果、と考えておいてよかろう」といいます。

ではなぜ、結果の予見に注目する必要があるのか。それは結果の予見が行為の責任と直結しているからです。通常、我々は予見できたであろう結果に責任を負います。つまり、帰結主義からの理論的な要請が、広義の動機からの意図の取り出しなのです。道徳判断として結果を重視するならば、行為における結果の予見が重要な要素となるのは必然です。

ベンサムにおいて、動機と意図の区別は、(広義の)動機のうちの意図の側面を重視した結果といった方が正確かもしれません。というのは、動機と意図の区別は、実際に存在するものではなく、操作概念上の区別だからです。ジョン・デューイ『倫理学』はこう述べています。

動機と意図との区別は、事実そのものの中に見出されるのではなく、われわれ自身の分析の結果にしかすぎず、一つの活動の情動的側面を強調するか、それとも知的側面を強調するかによる。功利主義的立場の理論的価値は、この立場が知的契機、すなわち、結果の予見の本質的位置を見のがすことからわれわれを警戒してくれるという事実にある。動機に重点をおく理論の実践的価値は、知的契機がとる方向を規定するにあたって、性格なり、めいめいの性向や態度なりによって演じられる役割に、その理論が注意をうながす点にある。

功利主義的立場は、結果を重視するからこそ、例えば「こんなことになるとは思わなかった」(=結果が予見不可能だった)といったような釈明の真偽を検証する必要があるわけです。あるいは、どんな帰結主義者であっても、不慮の事故であったり、全力を尽くしても患者を救えなかった医師を、結果のみから有責とすることはないでしょう。帰結主義者が行為の道徳性を測る際に、広義の動機に見ているのは、その一部をなす、意図=結果の予見という側面なのです。

他方、「動機に重点をおく理論」の方は、行為者の性格や性向、態度にも着目します(性向とは、ある種の動機から行為する傾向のこと)。結果の予見は行為者から見た予見に過ぎず、その解像度は当人の注意深さや対象への向き合い方によって大きく変化しますし、予見は確実なものではありません。それ故、結果の予見、そして結果そのものも行為の道徳的評価としては当てにならないものであって、狭義の動機と意図が渾然一体となった、広義の動機こそが行為の道徳的評価としては重要なものなのだという見方になります。

再批判は有効だったのか

以上のように、ベンサムにおける動機と意図の区別の真意を理解すると、ミルの例示が、必ずしも動機と意図を混同しているとは言えないことがわかります。というのは、この区別は、行為の道徳性をめぐる道徳的ジレンマに直面した際の分析的手法として採用されているものだからです。

また同様に、問題の所在が(狭義の)動機を道徳的評価から切り離したことにあるのではないこともわかります。いずれも功利主義の理論上の要請からくる分析的な操作概念であり、道徳的評価を審査する際の仮設の足場のようなものであって、少なくとも功利主義内部に破綻をもたらすようなものではありません。

言うなれば、功利主義者が行為の道徳的評価という作業を行う際の、作業手順なり、道具立てが、動機と意図、結果の予見、道徳的責任といったものなのです。別の手順や別の道具でそれを行う人にとって、功利主義のそれが不要な手順、不要な道具に思われることもあります。

ミルは行為の評価として動機を重視しないのであって、行為者の評価としては大いに関係あることを認めており、この折衷的な立場が進歩であるか退歩であるか評価の分かれるところではありますが、ルーウェリン・デイヴィスの批判がミルの功利主義において痛打となることはないように思われます。

今回はやや込み入った内容になってしまいましたが、行為の道徳性をめぐる「結果か動機か」、「帰結主義か義務論か」という、倫理学における大きな対立を考える入口として、考察の手がかりになれば幸いです。

参考文献

ジョン・プラムナッツ『イギリスの功利主義者たち』

ジョン・デューイ「倫理学」第二部(『世界思想教養全集』第14巻「プラグマティズム」所収。『倫理学』はジェイムズ・ハイデン・タフツとの共著だが、第二部・第三部はデューイの執筆部分)

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