『功利主義論』に言及された人々(11)ホーン・トゥック

『功利主義論』サポートページ企画「『功利主義論』に言及された人々」の第11回です。

「言葉が未だ原義を意味し続けるはずだと考えたのは、ホーン・トゥックだとまことしやかに伝えられているが、私はそういった過ちを犯さないつもりである」(『功利主義論』)

ミル自身が語源に関する記述を加筆したためか、第二版で削除されてしまった一文です。ジョン・ホーン・トゥック(John Horne Tooke, 1736–1812)は、イギリスの言語学者、文法学者ですが、急進主義的な政治活動家、政治家、哲学者でもありました。

急進的政治運動家としてのトゥック

トゥックは、裕福な家禽商の子としてロンドンに生まれ、ケンブリッジ大学で学んだのち、牧師となりますが、政治活動への関心が高まり、聖職者の地位を放棄します。

急進的な政治家“自由の闘士”ジョン・ウィルクスの熱烈な信奉者となり、共に行動するようになりますが、のちに決別します。ウィルクスの盟友でもあったロンドン市長ウィリアム・ベックフォードを支援して、ジョージ3世を批判する大胆な請願を出させます。

自身もアメリカ独立革命を支持し、ジョージ3世を批判する公開書簡を送付したことで反逆罪に問われますが、無罪となりました。のちにフランス革命でも同じく支持を表明し、反逆罪で訴追されますが、ここでもまた無罪となります。

匿名の論客ジューニアスが、同じ急進派ながら、ウィルクスを批判したことをきっかけに、トゥックとジューニアスの間で論争が繰り広げられます。ジューニアスの批判点は、ウィルクスの私生活問題(賭博、飲酒、不品行)や、ジョージ3世と和解を試みるなど、体制へのおもねり、妥協的な態度でした。

トゥックはジューニアスがウィルクスに冷淡であり、批判重視で非建設的であることに加え、匿名の安全圏からの批判で、リスクを負っていないことを非難し、ウィルクスを擁護しました。

しかし、のちにトゥックがウィルクスと決別する理由もこれらと類似したものであったことは皮肉なことです。トゥックは、ウィルクスが組織の活動費を自身の借金返済に流用していたことや、改革姿勢が次第に穏健的・妥協的になっていったことなどで、対立が深まり、ウィルクスの元を去ることになります。

トゥックは1790年に下院議員に当選しますが、牧師との兼職禁止規定により、議員資格を剥奪されてしまいます。彼はとうの昔に牧師職を放棄していましたが、正式な辞職手続きを取っていなかったため、牧師資格が残っていました。体制派がここを突いて急進派の勢力を抑える目的があったようです。

政治活動から身を引いたのち、言語学研究に専念することになります。

どういう事情なのかよくわからないのですが、彼は友人のウィリアム・トゥックの遺産を受け取ることになっており、トゥックという姓ももらい受けたようです(正確にはここからジョン・ホーン・トゥックとなります)。そしてそのウィリアム・トゥック邸がパーリーにあり、その名を冠して『パーリー閑談』という本を書きます。

“Epea Pteroenta. Or, the Diversions of Purley”
(Google Booksやインターネットアーカイブで読むことができます)

Epea Pteroentaはギリシャ語で「翼をもつ言葉」という意味です。「万物は流転する」で知られるヘラクレイトスの概念で、要するに、言葉は変化するものだということですが、トゥックにとっては別の含意もありそうです。

『パーリー閑談』は、H、T、F、Bと表記される4人の人物の座談形式をとっており、Hがホーン・トゥック自身、Tがウィリアム・トゥックをモデルとしています。残りがフランシス・バーデット卿とリチャード・ビードンだそうです。

トゥックの言語思想

トゥックによれば、本来精神には単純概念しか存在せず、それを表現する語も、名詞と動詞という「必要語」しかありません。しかし、ごく単純なことを表現する際には、名詞だけ、あるいは名詞と動詞だけの文章で済みますが、より複雑なものごとを表現しようと思えば、その他の様々な品詞を含んだ文章が必要になります。

トゥックは、複雑な概念であっても、必要語をひたすら羅列した冗長な文章で表現することは不可能ではないとします。しかし問題は、言語生成の速度が思考生成の速度に追いつかないということなのです。トゥックは、言語の第一の目的は思想を伝達することであり、第二の目的はそれを「迅速に」行うことであるとします。そこで冗長な文章をまとめて表現する「短縮語」が必要となり、これが名詞と動詞以外の品詞の単語であるといいます。

短縮語の存在によってやっと言語は翼を得て、精神の進む速さとある程度、歩調を合わせることを可能にしている、とトゥックは考えました。

ヘイズリット『時代の精神』は、これを18世紀に急速に発展した化学に準えます。化学は、ある物質が複数の元素からなる化合物であるか、あるいはそれ以上分解できない単一の元素からなる物質かを分析します。トゥックの言語論も同じような科学的な手法をとります。すなわち、短縮語は語源を遡れば、必要語に還元することができるのです。

語源研究への着目

『言語論のランドマーク』は、上記の話が英語に限らず、あらゆる言語に当てはまるとする、『パーリー閑談』における記述を引用した後で次のように述べています。

この引用文を読むと、トゥックが普遍論者に思われるかもしれない。すべての言語の「基底」には共通の構造──単純な感覚を表す名前(名詞と動詞)から成る構造──があるという考えである。しかし、思考の速さに合致させるために、短縮語が各言語に取り入れられ、それによって様々な品詞が付け加わることになる。しかし、その様々な品詞というのは、実際には既存の名詞や動詞の短縮語にすぎないものである。その取り入れ方は、社会によって異なることだろう。各言語の文法間に見られる明瞭で「表面的な」相違点は、どういった短縮方法を用いるかの相違に起因しているのである。普遍的構造という核心部分と言語間の「表面的な」相違の両方をこのように簡明に説明したことで、トゥックの普遍論は、アルノー、ランスロー、そしてコディヤックといった先輩格の普遍文法家による説明に比べて分かり易くなっている。

短縮語は、もともと必要語からなるわけですから、言語の分析はとりもなおさず、その歴史的研究、すなわち語源研究へと向かうことになります。語源研究は、その言語の構造分析であって、言語の使用分析とは異なります。言語の使用者は、その言語が《どのように用いられているか》をわかっていても、《どのような構造をしているか》を必ずしも理解していません。そしてトゥックによれば、人々は、哲学者や教育ある人々に騙され、語の真の意味を誤解し、それ故に概念も正しく捉えられていない、といいます。

その悪しき影響について、『言語論のランドマーク』は次のように説明します。

権威者たちは、長期にわたって、言語や言語の概念を統制し、また、その統制を通じて、人間の精神をも統制してきた。しかし、トゥックの経験的言語研究は、そういった統制に終止符を打とうとしたのであった。このような事情を考えると、トゥックの同時代人が、彼の政治思想と言語思想、哲学思想を分けて考えることができなかったのも無理からぬ話なのである。

こうしたトゥックの言語思想論は、のちの言語相対論(サピア=ウォーフの仮説)を先取りし、予見するようなものだともいえます。これは言語が思考の反映であるのみならず、逆に言語が思考を規定しているという考えです。

トゥックの言語論は、現代の科学的言語学の厳密さには及ばず、後世への影響は限定的ではありますが、言語と人間の思考や社会の関係を探る哲学的・歴史的探求として重要な意義を持っていると言えるでしょう。

参考文献

W. ヘイズリット
『時代の精神──近代イギリス超人物批評』

肖像画家、批評家として活躍したW・ヘイズリットが記した人物評伝で、ベンサムやコールリッジ、バイロン卿、ワーズワースなど25人について書かれています。この中でホーン・トゥックについても書かれています。

ロイ・ハリス/タルボット・J. テイラー
『言語論のランドマーク──ソクラテスからソシュールまで』

「ジョン・ホーン・トゥックの著作は、言語思想史の中で一つの重要な位置を占めている。彼の「ダニング氏への手紙」(……)と『パーリー閑談』(……)は、言語に関する著作に限れば、一八世紀末から一九世紀初頭の英国で最も広く議論されたものと考えてよいだろう」

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