須弥山世界と仏教宇宙観(2)天界編

楠龍造『龍樹の仏教観』のサポートページ企画です。今回は「須弥山世界と仏教宇宙観」の続編として、前回では省略した天界、すなわち天の住む世界について解説したいと思います。

ところで、円城塔の『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』という小説は、ある時AIが「悟りをひらいた」ことから始まるSF小説ですが、AIたちがたどる顛末が仏教史の総捲りにもなっており、非常に面白い作品です。この中で須弥山世界についても言及されます。いわく「『阿毘達磨倶舎論』の執拗さをみる限り、仏教徒には設定マニアが溢れていた」と。ここでも倶舎論の世品をベースに仏教宇宙観について解説したいと思います。

天界は基本的に須弥山の上空にあるのですが、「須弥山と仏教宇宙観」でも触れた通り、須弥山の山頂に三十三天の住処(忉利天)がありますし、須弥山の中腹にも四天王とその眷属が住んでいます。さらに須弥山を取り囲む山脈である七金山や、太陽や月、星々にも四天王配下の天衆が住んでいます。

ベランダ型かバルコニー型か

須弥山の中腹に「傍出」している部分があり、そこに四天王とその眷属が住んでいるとされます。この際、「傍出」とは、ベランダないしは棚のように突起しているのか、はたまたバルコニーないしは階段のように飛び出しているのか、『倶舎論』の記述からはよくわかりません。一応、ベランダ型説が一般的なようです。

この出っ張りは上に行くほど小さく、下に行くほど大きくなります。そして一番上の出っ張りの東西南北に、帝釈天に仕える、四天王が住んでいます。具体的には、東方に持国天、西方に広目天、南方に増長天、北方に多聞天(毘沙門天)が住み、四方の四大洲を守護するとともに、忉利天への侵入を防いでいます。そこから下にある三つの出っ張りには、上から順に、恒憍、持鬘、堅手という、四天王の眷属である薬叉が住んでいます。

須弥山の中腹に住む四天王や山頂に住む三十三天など、地上に住む天を地居天じごてんといい、以下に説明する忉利天の上空に住む天を空居天くうごてんといいます(太陽や月に住む天は一応、空居天になるかと思いますが、須弥山世界では太陽も月も須弥山の中腹辺りを回っています)。

忉利天から8万由旬上空に「夜摩天」があり、その16万由旬上空に「兜率天」があり、そこからさらに32万由旬上空に「楽変化天」、そこからさらに64万由旬上空に「他化自在天」があります。それぞれ場所の概念であると同時に、天神のことでもあります。つまり、夜摩天とは夜摩天が住む天宮のことでもあり、兜率天は兜率天が住む天宮のことでもあります。夜摩天は閻魔天(閻魔大王)と同じ(?)ではあるのですが、詳しくは稿を改めて、来たるべき地獄編で詳述したいと思います。

兜率天は、兜率天の住む天宮であり、また、「弥勒とは何か」でも触れた通り、弥勒菩薩が次の如来となるべく今現在も修行している場所でもあります。

楽変化天は「自ら欲境を化作して自ら受楽し其の自化の妙欲の境に於て自在に転ずるが故に此の名あり」とされます(加藤智学『阿毘達磨倶舎論世間品抄解』)。

他化自在天は「他の化作したる欲境に於て自在に受用し娯楽するが故に此の名あり」とのことです(同前)。他化自在天は第六天とも言われ、織田信長でおなじみの「第六天魔王」はこの天のことです。釈尊が悟りをひらくのを妨害したとされ、悟りの障害となる「三障四魔」のひとつ、天子魔に数えられます。

四天王と三十三天に加え、今見た四種の天、合計六種の天は、六欲天と呼ばれます。これはこの神々が未だ欲を逃れていないからであり、それ故に、ここまでの世界を「欲界」といいます。ここまでの世界とは、地下にある地獄から他化自在天までのことです。「欲界」の上位には「色界」と「無色界」があります。

色界と無色界

「色界」のしきとは、色即是空の「色」と同じで、「かたちあるもの」という意味です。欲界の者たちも当然「かたちあるもの」なわけですが、「色界」と言った場合は、「欲界」を除いて、欲望から逃れてはいるものの、未だ「かたち」を有した存在の世界です。そして「無色界」はさらに「かたち」すら有しない存在の世界なのです。

「欲界」「色界」「無色界」を合わせて三界と言い、「三界に家なし」といったように、全世界という意味で使われたりします。

色界は初禅、二禅、三禅、四禅の四つに分けられ、初禅から三禅までにそれぞれ三つの天界、四禅に八つの天界があります。

初禅には、下から梵衆天、梵輔天、大梵天という三つの世界がありますが、これらは合わせて梵天の世界と言えそうです。「仏の階層と金剛手薬叉について」において少し触れましたが、仏教の「天」は、インドの古代の神々を取り入れたものが多く、その代表が、雷霆神インドラを取り入れた帝釈天であり、創造神ブラフマーを取り入れた梵天です。

帝釈天は忉利天の主座にありましたが、初禅の大梵天とはまさにこの梵天のことです。釈尊に教法を広めることを勧めた「梵天勧請」を行った天としても知られます。その下にある梵輔天が梵天の近臣(大臣ないし役人)たちのことであり、梵衆天が梵天の民のことです。

二禅には、少光天、無量光天、極光浄天の三つの世界があり、三禅には少浄天、無量浄天、遍浄天の三つの世界があります。四禅だけは八つの世界があり、無雲天、福生天、広果天、無煩天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天となっています。ここまでが色界で、さらに無色界というものが存在します。

無色界はもはや空間の概念を超越しており、場所としてそこにある、という表現にそぐわないものに思われます。無色界の四種の世界──空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処──は、むしろ意識の段階といった方がいいかもしれません。最上位の非想非非想処は有頂天とも呼ばれます(経典によっては色界の最上位である色究竟天が有頂天)。

天界の多層構造が意味するもの

天界は非常に煩瑣とも思えるような多重、多層の構造を持っており、それぞれの違いもやや難解です。どうしてこのようなこのような構造が生み出されたのか。確かなことは言えませんが、おそらく、こうした構造は、修行の段階を象徴するモデルであり、禅定者たちにとっての瞑想体験の言語化・体系化であったのだろうと思われます。

菩薩五十二位(十信、十住、十行、十廻向、十地、等覚、妙覚)などと同じように、天界の多層構造も修行の階位のようになっています。例えば色界の二禅は、光に象徴される徳の世界であり、その多寡によって三段階に区分けされています。三禅は、喜も楽もない「妙楽」の世界であり、やはりその多寡によって三段階に区分けされています。定方晟『須弥山と極楽』は「『妙楽』はおそらく真理と一体となっているときの楽なのであって、静寂そのもの、ギリシア哲学の『心の平静』(ataraxia)に相当するのかもしれない」と述べています。

これらは、禅定による心的境地、意識レベルや心の状態を表現するもののように思えます。四禅についても見ておきましょう。

三禅以下の天空にある天は、どうやら地面が雲によって作られてるようなのですが、四禅以上ではその雲がない世界であり、その最初ということで、四禅の一番下は、無雲天といいます。その上にある福生天は「智念捨等の相応せる禅定を修し凡夫の勝福を積みて方に往生すべき天」、その上にある広果天は、「広大なる果報の功力あり色界の凡夫の果の中にて最も殊勝なる果報の天」であるといいます。ここまでは凡夫が転生しうる天であるのに対し、これより上は聖者にしか転生できない天で、特に色界の残りの五つの天を五浄居天とも称します(加藤前掲書)。

五浄居天の一番下にある、無煩天は、「煩擾なく繁雑なき初の天」であり、「煩雑なき諸天の中にて是れ最も初なるが故に、繁広天〔=五浄居天〕の中にて是れ最も劣なるが故に、此の名あり」とのことです。

その上にある無熱天は、「善く雑修静慮の上中品の障を伏除して意楽調柔にして其の心境に依なく処なく清涼自在にして諸の熱悩を離れたる天」です。

その上にある善現天は、「上品の雑修静慮を得て果徳の彰れ易き天」です。

その上にある善見天は、「上勝の雑修静慮を得て、修定の障の余品至微なるをば見ること極めて清徹にして其の障を離るる天」です。

色究竟天は「色界の最上に在る最も勝れたる天」であり、「有色界の中に於てさらに此に勝過するもの無きが故に色究竟と」名付けられ、「或は衆苦所依の身の最後辺に到れるを以て色究竟と名くとも」言われます。

前述の通り、色界を超え、無色界に入ると、もはや「かたち」が存在せず、無色界の四段階は、文字通り、禅定の世界、とりわけ「定」の世界を表現したものとなります。「禅定」として一括りにされますが、本来「禅」と「定」には微妙な違いがあり、「禅」の持つ「寂静」と「審慮」の二要素のうち、「寂静」の要素が増したものが「定」である、と定方前掲書は記しています。色界が初禅から四禅までからなる「禅」の領域であったのに対し、無色界は「定」の領域に突入します。

無色界の四段階を非常に乱暴に説明すれば、「何も考えない」(空無辺処)、「何も考えないということも考えない」(識無辺処)、「何も考えないということも考えない、という考えも持たない」(無所有処)、「考えを持たないという考えも持たない」(非想非非想処)といったような、究極の心的境地を段階的に示したものと思われます。

以上のように、天界の多層構造は、世界の物理的な構造を説明する図式であるとともに、修行の階位や禅定者の心的世界の説明図式ともなっているように思われます。

参考文献

定方晟『須弥山と極楽』

定方晟『仏教にみる世界観』

加藤智学『阿毘達磨倶舎論世間品抄解 巻下』

小野玄妙『仏教思想大系 第14巻 仏教神話』

錦織亮介『天部の仏像事典』

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