『功利主義論』サポートページ企画「『功利主義論』に言及された人」の第10回です。
仮に今、この連帯感を宗教として教え込み、教育、制度、世論の総力をもって、かつての宗教と同じように、すべての人が幼い時から、辺り一帯、この連帯感を公言し実践する人々に囲まれて育てられると考えてみよう。この概念を理解できる人ならば、「幸福道徳」の究極の拘束力が十分であるか疑念を持つ人はひとりもいないと私は思う。理解が困難だと思う倫理学徒がいるのなら、理解の助けとして、私は、コント氏の二大著作の第二のもの『実証政治学体系』を推薦しておく。(『功利主義論』)
オーギュスト・コント(Auguste Comte, 1798-1857)は、フランスの社会学者、哲学者、数学者であり、「社会学」(sociologie[仏], sociology[英])という名称の創始者として知られています。サン゠シモンに師事し、助手を務めたこともありましたが、のちに決別します。
ミルとコントの関係
ミルは最初、サン゠シモン派の一人としてコントの著作に触れたようです。特にコントの『実証哲学講義』は、『論理学体系』を執筆中だったミルに影響を与え、一時はコントの弟子を自称するほど心酔していました。二人は文通によって関係を深めていきましたが、次第に意見が対立することが増え、疎遠になっていったようです。
その理由について『ミル自伝』では、コントが、かつての聖職者が持っていた指導的役割を、哲学者が担うべきだと主張し(ここまではミルも同意するのですが)、そこからさらに進んで、哲学者たちを一種の階層集団に組織して、精神的支配の権利を与えるべきとし、これに基礎を置くならば、国家の独裁制も、家の家父長制も有益であると述べたためだとしています。ミルは「これを知ったとき、たとえ論理学でほぼ一致していても社会学ではもはや軌を一にすることはできない、と私が感じたのは当然だろう」と述べています。
村井久二は『コントと実証主義』の「訳者あとがき」で、さらにもう二つの理由をあげています。ひとつは、コントが男性優位・女性蔑視の思想を持っていたこと、もうひとつは、コントがミルに醵金(寄付金)集めを依頼したことです。
前者については、のちに『女性の解放』を執筆することになるミルとって、到底受け入れ難い主張であり、ハリエット・テイラー夫人の後押しを受けつつ、コントに反論しますが、議論は平行線のままでした。
コントがこのような考えは、当時支配的だった生物学的決定論に依拠したもので、特にフランツ・ヨーゼフ・ガル(Franz Joseph Gall, 1758–1828)の提唱した骨相学(phrenology)の影響を強く受けていました。ガルの骨相学では、女性は、感情や情愛、道徳性に関する脳の部位が男性より優位であり、家事や育児に適しているとされ、逆に知的活動や社会活動、政治活動は不向きであるとされました。
こうした考えは単に性別による能力の違いを説明し、役割分業を正当化する原理であるだけでなく、男女の優劣、特に女性の劣等性を説明し、政治や社会参画からの排除を正当化する原理として利用されました。骨相学は19世紀後半には疑似科学として退けられますが、当時のコントとしては「実証主義」に基づいた女性観のつもりであったようです。
後者について、村井久二「訳者あとがき」は次のように述べています。
経済的に困窮するに至ったコントは、(既にそれ以前からも)ミルに、イギリスのコント支持者の間で醵金を募ってくれるようにと依頼した。ミルは、第一回目はこの依頼をひきうけて、グロート等三名のイギリス人から総額六千フランの醵金をえて、これをコントに送金したが、同時にコントに対して、かかる醵金に頼るような方法はやめた方がよい、と忠告した。だからミルは、コントが一八四五年に再度の醵金を依頼したときには、あまりよい感情をもたず、実際二回目はほんのわずかの醵金しか集まらなかった。そしてこれが両者の決裂の決定的な原因となったのである。
関係が途絶えたのち、コント没後の1865年に、ミルは『コントと実証主義』(Auguste Comte and Positivism)を出版します。この本は二つの雑誌掲載論文を併せたもので、二部構成をとっています。
実証主義と人類教
コントの人生を前期と後期とに分け、前期を『実証哲学講義』に代表される、実証主義を標榜する「科学者」としてのコント、後期を『実証政治学体系』に代表される、人類教を提唱する「宗教家」としてのコント、とすることが、コント研究の習いになっているようです。
ミルの二つの論文もちょうどこの分類に従っています。前期コントを解説する第一部と、後期コントを解説する第二部が『コントと実証主義』の基本構造をなしています。本稿で注目したいのは、後期コントです。ミルにとって後期コントは肯定と否定、支持と不支持が相半ばするものだったようです。
コントは、既成の宗教に代わる代替物、神なき宗教として、「人類教」(religion de l’humanité[仏], religion of humanity[英])を提唱します。これは神の代わりに人類全体への奉仕を掲げる新たな宗教です。これについてミルは、まずもって、コントが「人類教」というアイデアへと到達したことを次のように評価します。
人類の普遍的利害という観念によって精神のうちに喚起される強力な力は、感情の源泉であるとともに行為の動機ともなるが、このような力については多くの人々がこれを認識している。しかしわれわれは、コント氏以前に、氏ほど十分にこの観念のもちうる威力の全体を明らかにした人がいたかどうか知らない。
J. S. ミル『コントと実証主義』村井久二訳、木鐸社、p.142
それ故われわれは、コント氏はその哲学を宗教へと発展させる試みにおいて正当であったし、またそれは宗教たりうる本質的条件を充足していた、と考える。しかしそればかりでなく、他のすべての宗教もその実際上の帰結において、氏が構築することをめざしたものと一致させられるのに比例して、より良きものとなる、とわれわれは考える。
同上、p.144
しかし、ひとたびこのアイデアが具体的な施策へと移されると、ミルの評価は急転します。コントの人類教に対するミルの不満は、「意図と動機」としておなじみのものです(ルーウェリン・デイヴィス回参照)。人類全体への奉仕を意図として持てば十分なものを、コントは唯一の動機として持つことを要求します。
そして、コントの隣人愛への熱狂は、すべての利己的な行動を抑圧するものであるといいます。この抑圧が、単に利他性の優先や尊重を説くのみならばまだしも、コントにおいては、骨相学や生物学的理論と結びつくことによって、肉体の欲望や快楽を抑制することで道徳的に高まるという前近代的な、宗教的苦行の発想と違いないものとなり、個人の自由や多様性を軽視することになるといいます。
人間の全生活が一つの対象に向かい、単一の目的に対する手段の体系になるよう教育されることが、何故必要なのであろうか? 結局においては一人一人の個人からなる人類は、他の人々の幸福にとって必要とされる規則と条件の下で、各人が自分自身の幸福を追求したときの方が、他の人々の幸福を各人の唯一の目的とし、そのため諸能力の持続にとって不可欠なもの以外のいかなる個人的快楽も自己に許容しないときよりも、幸福のより大なる総計を獲得するということ、これは事実なのではなかろうか?
同上、p.148
こうしてミルは、コントの常軌を逸した「統一」と「体系化」の要求を誤謬の源泉と見なし、コントが人類教において整備しようとする儀式や教義の体系化も、ミルにはローマ・カトリックの悪しき模倣と映ります。
しかし、『ミル著作集』第10巻に序文を寄せているF. E. L. プリーストリーは、コントに理解を示します。『コントと実証主義』の別の箇所でミルは、コントがプロテスタントを全く理解していないと述べていますが、ミルもカトリックを全く理解していないとプリーストリーは言います。というのは、イギリスのプロテスタントが宗教を感情や倫理的態度に基づいて定義するのに対し、ヨーロッパ大陸のカトリック教徒は、宗教を公共的な行為として、儀式への共同体としての参加、公共的な象徴や祭典として考えます。
コントは個人の感情を高揚させるために儀式や礼拝を計画しており、これは社会の結束を強化する手段であり、カトリック的な宗教の一機能(共同体的な社会結束)であるわけですが、ミルにはこれが全く見えていません。
さらに、コントが、実証主義以前の社会段階では「われわれのあらゆる種類の力を自由に発揮することが重要であった」が、現在では「それを規制することこそが主として必要なことになる」と述べているとし、この教義に対して、ミルは「全面的に賛成しかねる」と表明します。宗教の機能および社会の現状認識が両者の見解を分けている、とも言えそうです。
ブラジルに渡った人類教の試み
意外にも、コントの人類教は、フランスから遠く離れたブラジルに影響を与えました。清水幾太郎『昨日の旅』は次のように述べています。
現在のフランスには、コントの学説の研究者はいるが、弟子は殆どいないようであるし、況して、人類教の信者がいるとは考えられない。ところが、リオ・デ・ジャネイロ──およびブラジルの他の二つの土地──には、少からぬ信者がいて、人類教の堂々たる教会(⋯⋯)を建設し、維持している。〔引用者:本書の刊行は1977年〕
ブラジルの国旗に書かれた”ORDEM E PROGRESSO”は、ポルトガル語で「秩序と進歩」を意味し、これはコントのモットー(Ordre et Progrès)でもありました。

国旗にコントの言葉が記された背景には、ベンジャミン・コンスタント(Benjamin Constant Botelho de Magalhães, 1833-1891)という人物が関わっています。彼は士官学校の数学教授で、熱心なコント主義者であり、コントの思想を士官候補生たちに広めました。1889年、デオドロ・ダ・フォンセカ将軍が帝政を打倒し、ブラジルを共和制へ移行させるクーデターを起こした際には、コンスタントの薫陶を受けた軍人たちが多く活躍しました。コンスタントはその後、第一共和政の陸軍大臣および文部大臣に就任し、軍の民主化と教育改革に尽力します。
新しい共和国に新たな国旗が制定される際、そのデザインが、ブラジル実証主義者教会(Igreja Positivista do Brasil)の創設者のひとりライムンド・テイシェイラ・メンデス(Raimundo Teixeira Mendes, 1855-1927)と、同じくコント実証主義の信奉者である画家デシオ・ヴィラレス(Décio Rodrigues Villares)に委ねられ、「多少の反対を押し切って」コントのモットーが入れられたそうです(清水幾太郎『昨日の旅』)。
このブラジル実証主義者教会というのは、人類教会(Templo da HUmanidade)ともいい、メンデスとミゲル・レモス(Miguel Lemos, 1854-1917)によって、1881年に設立された、コントの人類教を奉じる組織です。初期には新政権の有力者もメンバーでしたが、メンデスの死後、影響力を失ったとされます。
参考文献
村井久二「訳者あとがき」(『コントと実証主義』)
清水幾太郎『オーギュスト・コント』
清水幾太郎『昨日の旅』
矢島杜夫『ミル「自由論」の形成』
F. E. L. Priestley “Introduction” (The Collected Works of John Stuart Mill, Volume X)
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