ナーランダ僧院(Nālandāsaṃghārāma)は、ナーランダ大学、那爛陀寺とも呼ばれ、ヴィクラマシーラ僧院などと並んで、5世紀から12世紀ごろまでの仏教研究の一大拠点でした。
ナーランダ僧院は、5世紀の初め、グプタ朝のシャクラーディティヤ王(クマーラグプタ王 / 帝日王)によって創建され、ブッダグプタ王ら歴代王によって増築され、発展していきました。ナーランダは王舎城の近くにある村で、ブッダ十大弟子の筆頭に挙げられる舎利弗と大目蓮の出身地とも言われます。
ターラナータ『インド仏教史』は、龍樹がこの僧院で学び、学頭まで務めたと伝えますが、創建が5世紀とすると、それ以前にナーランダに僧院があったかは疑問が残るところです。
ただ、ナーランダには、かつて商人500人が共同で土地を買い取り、ブッダに寄進したことが伝えられるので、僧院創建以前に、その原型となるものがあったのかもしれません。
余談ながら、ブッダの時代の仏教徒は、定住せず、遊行(ゆぎょう)しながら生活することが基本であり、仏教における寺の起源は、外出が困難な雨季の間を過ごす、雨安居(うあんご)とされ、最初の寺は王舎城下の竹林精舎でした。ナーランダの商人たちが寄進した土地も雨安居のための土地と思われます。
玄奘と義浄の来訪
7世紀に三蔵法師の名で知られる玄奘が、このナーランダ僧院を訪れます。『大唐西域記』によれば、この時、ナーランダ僧院の学頭は、戒賢(シーラバドラ)でした。戒賢は、玄奘の来訪を夢で予知していたといい、玄奘を大いに歓待し、特別待遇を与えます。玄奘は、僧院に5年間滞在し、勉学に励み、多くの経典を持ち帰って漢訳しました。
僧院は、四階建ての壮大な建物で、日に100か所以上も講座が開かれ、数千人もの俊才が学んでいたといいます。学ばれていたのは、大乗仏教を中心としつつも、部派仏教の教理のみならず、バラモン教のヴェーダや、論理学(因明)、音韻学(聲明)、医学、数学にも及んでいました。
玄奘帰唐26年後、義浄もまた長安を発ち、ナーランダ僧院に留学したことで知られています。義浄は僧院に10年滞在し、多くの経典を持ち帰りました。
その他の出身者
その他の出身者に、護法(ダルマパーラ)、智光(ジュニャーナプラバ)、善無畏(シュバカラシンハ)、金剛智(ヴァジュラボーディ)などがいます。護法は戒賢の師です。智光は戒賢と同時代人で、玄奘は智光を、戒賢門下の上首と伝えています。戒賢と智光との間には空性をめぐる論争があったとされます。しかし、これは法蔵が日照(地婆訶羅)から聞いた話と伝えられますが、論争は史実性に乏しいとされます。
玄奘がナーランダから唐に伝えたのは唯識論ですが、ナーランダは次第に密教研究へと傾斜していったようです。善無畏は、ナーランダの高僧ダルマグプタより、中国への密教伝道を命じられ、西暦716年に長安に到着しています。彼は『大日経』(サンスクリット原本)をはじめ、多くの密教経典をナーランダから中国にもたらしました。
善無畏の同時代人の金剛智も、中国に密教を伝えた人物で、真言密教では「付法の八祖」の第五祖に数え上げられています。一説には龍樹の弟子である龍智(ナーガボーディ)の弟子であったとされるのですが、龍智が龍樹の弟子で、金剛智の師でもあるとすると、龍智の寿命は400歳以上ということになってしまいます。
龍樹も?
前述の通り、ターラナータ『インド仏教史』は、龍樹もナーランダ僧院の学頭を務めたと伝えます。このほかターラナータは、龍樹の直弟子である聖提婆(アーリヤデーヴァ)をはじめ、無著や世親、陳那、月称などもナーランダの学匠であったと伝えますが、疑問視する見方が多いようです。
僧院の崩壊
ナーランダー僧院は、12世紀末に、アフガニスタンのイスラム勢力の侵攻により焼き尽くされてしまいます。経典や書籍類が半年あまり燃え続けたといいます。一部の経典類は、仏教徒によってネパールやチベットに持ち出され、難を逃れました。
参考文献
前田行貴『インド仏跡巡礼』
福田徳郎『遺跡にみる仏陀の生涯』
三友量順『玄奘』
藤謙敬『インド教育思想史研究』
おまけ
Amazon Prime Videoで『三蔵法師・玄奘の旅路』を観ました。ロケーションが美しく、見ごたえのある映画でした。
玄奘は、唐の長安を発ち、天竺への長い旅に出ます
艱難辛苦の末、ナーランダ僧院に到着
僧院の学頭・戒賢に謁見
「玄蔵」は字幕のミスと思われます
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