楠龍造『龍樹の仏教観』サポートページ企画です。今回は「龍樹と中観派」について解説します。
初期中観派
龍樹(ナーガールジュナ)は、中観派の開祖とされます。がしかし、計良龍成『中道を生きる 中観』によれば、この言い方には少々問題があるようです。というのも「中観派」という呼称は、のちに見る中期中観派のバーヴィヴェーカ(清弁)によるもので、龍樹は初期の大乗教理の確立者であり、その影響下に初期瑜伽行派(唯識派)が形成され、それに対抗して、中観派が形成された、と捉えたほうが正確なようです。
聖提婆(アーリヤデーヴァ)は、龍樹の直弟子です。あまりにも巧みな弁舌で他派を論破してしまうために、恨みを買って殺されたとも言われます。
チベット文献には他に羅睺羅、パーオ、龍智の名を記しています。
龍樹の直弟子とも、聖提婆の弟子ともされるのが、羅睺羅(ラーフラバドラ)です。龍樹の師とする伝承もあります。
パーオは、チベット名のみ伝えられ、サンスクリット名も不明です。
龍智(ナーガボーディ)は、龍樹とともに密教の高祖とされますが、実在性を疑われています。一説には、龍樹は顕教を聖提婆に伝え、密教を龍智に伝えたとされます。
龍樹の主著『中論』の最古の注『無畏論』の作者や、龍樹の根本中頌に注を付け、『中論』を完成させた青目(ピンガラ)も中観派の思想家といえますが、彼らの詳細についてはわかっていません。
中期中観派
中期中観派は、帰謬論証派と自立論証派の対立に代表されますが、この両派の対立は、後年チベット仏教における分類であったようです。
帰謬論証派の仏護(ブッダパーリタ)を、自立論証派の清弁(バーヴィヴェーカ / バヴィヤ)が批判したことに端を発します。帰謬論証派は、他説が必ず誤謬に陥ることを証明することで、自説の正しさを浮かび上がらせる手法をとるのに対し、自立論証派は、積極的に自説の立証をはかります。
月称(チャンドラキールティ)は、むしろ仏護を擁護して、清弁を批判した帰謬論証派の重要人物です。チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパは、月称を「仏教史上最大の論師」と称えており、チベット仏教は帰謬論証派の影響下にあります。また、月称の『プラサンナパダー』は、『中論』の唯一のサンスクリット註であり、これによって『中論』のサンスクリット原文が残されることになったという意味でも重要な存在です。
後期中観派
月称ののち、寂天(シャーンティデーヴァ)、プラジニャーカラマティ、アティーシャが帰謬論証派とみなされますが、基本的には下火になっていったようです。後期中観派では自立論証派が優勢となり、あまつさえ、唯識派との接合が進みました。
代表的な思想家としては、智蔵(ジュニャーナガルバ)、寂護(シャーンタラクシタ)、蓮華戒(カマラシーラ)が挙げられます。この三者は、師、弟子、孫弟子の関係にあります。
最初に述べたように、中観派自体が唯識派への対抗として形成されたのだとすれば、ともすると後期中観派(の中の自立論証派)の傾向は、ある種の思想的頽廃にも思われるかもしれません。
しかしながら、後期中観派は、インドで仏教が衰退していくさなかにおいて、諸学派を体系化し、階梯の最高位として中観派を位置づけるもので、中観派の最終見解ともいえるものでした。
こののち、唯識派の祖・弥勒(マイトレーヤ)の著作の注釈書を著した、解脱軍(ヴィムクティセーナ)や、獅子賢(ハリハドラ)をこの派に含める場合もあります。
中観派の思想は、チベットへ伝えられた一方で、中国では三論宗となり、朝鮮を経て、日本にも伝わりました。
中村元『龍樹』を元に作成
参考文献
計良龍成『中道を生きる 中観』
中村元『龍樹』
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楠龍造『龍樹の仏教観』
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