清沢満之とは誰か?

『龍樹の仏教観』の著者である楠龍造の師・清沢満之(きよざわ・まんし)とはどんな人物なのでしょうか。

「清沢満之ほど知名度の低い、それでいて、これほど重要な人物は、ちょっといないのじゃないでしょうか」(司馬遼太郎)

「宗門内(東本願寺)ではウルトラ有名人、宗門外ではほとんど忘れられた思想家」(今村仁司)

「従来日本には哲学研究者は随分あるが、日本の哲学者というべきは故大西祝と我清沢満之氏であろう」(西田幾多郎)

清沢満之について、ここではごく簡単にその経歴を紹介したいと思います。

稀代の秀才

清沢は幕末の文久三年(1863年)に、名古屋・黒門町の下級士族・徳永家に生まれました。清沢姓は、のちに西方寺の清沢やす子と婚姻した際に改姓したものです。

幼少期より頭脳明晰だったため、篤信家であった母の勧めで、当時設立されたばかりの東本願寺の育英教校に学びます。この学校は、大谷派宗門の将来を担うエリート養成機関であったようです。そこで優秀な成績を修めた清沢は、東京への留学生に抜擢され、予備門を経て、1883年(明治十六年)に東大文学部哲学科に進学します。

当時、哲学は学問の中でも花形とされていました。村上専精は「この当時は哲学を知らねば学者でない位の時代であった」と述べているのですが、東大哲学科で学んでいない村上の月俸が一円五十銭だったのに対し、一回り年下の清沢の月俸は百円だったといいますから、どれほど東大で哲学を修めたということに価値が置かれていたかが、推量できるかと思います。

大学では、アーネスト・フェロノサやルートヴィヒ・ブッセから、カントやヘーゲル、ロッツェなどの西洋哲学を学びます。

楠龍造『龍樹の仏教観』ではロッツェへの言及がありますが、清沢がブッセから学び、楠へと教授したものであろうと推測されます。ブッセもロッツェもドイツ人ですが、『龍樹の仏教観』では英文で引用されています。これは清沢が英語のテキストを元に講義していたためであると思われますが、清沢は「漢文や英語はもちろんのこと、ドイツ語やギリシャ語などの言語にも通じていた」そうで、「実際、清沢の日記や大学時代のノートは、さまざまな言語で記されている」とのことです(山本伸裕『清沢満之と日本近現代思想』)。

博士号の第一号取得”予定”者

哲学科を卒業後、現在の大学院にあたる研究院に進学します。研究院は、帝国大学令によって、東京大学が帝国大学に改称・改組された際に設置されたもので、清沢はその翌年に(つまり二期生として)研究院に入ります。

さらに、清沢が大学を出る二ヶ月前に学位令が発令されており、正式な学位としての博士号を得るには研究院を出ることが必須となります。山本前掲書は、清沢が博士号の第一号取得者として想定されていたと推察しています。そしてゆくゆくは、帝大哲学科出身の日本人教授として、日本の哲学界をリードしていくことが嘱望されていたのでした。

『宗教哲学骸骨』を著す

しかしながら、清沢は研究院をわずか一年で中退することになります。京都の尋常中学の校長になってもらいたいという、宗門からの要請によるものでした。これは当時、京都府が財政難のため、府立の尋常中学の経営を東本願寺に委嘱することになったためです。

清沢は校長職にありつつ、授業も受け持っており、この頃の生徒には、関根仁応(草間仁応)や近角常観、吉田賢龍らがいました。関根仁応は、楠龍造『龍樹の仏教観』で、村上専精とともに謝辞を捧げられており、吉田賢龍は同書の「序」を執筆しています。近角常観は後述する浩々洞の場を提供した人物です。また、清沢は、長く途絶えていた宗門からの留学生制度を復活させて、近角や吉田を帝国大学に送っています。

大学を離れた清沢でしたが、1892年(明治25年)、30歳のときに『宗教哲学骸骨』を上梓します。同書は、清沢の前半生の思索を代表する著作で、本邦最初期の本格的な哲学書であり、宗教(仏教)を哲学化したとされる井上円了(清沢の先輩)とはまた異なった、合理化し得ぬ残余を哲学する書物でした。同書の「哲学の終る所に宗教の事業始まる」というフレーズは、彼の思想と実践を予期するものでもありました。

結婚・入寺・禁欲生活

この頃、清沢は愛知県三河の西方寺に入寺し、その子女清沢やす子と結婚しています。これには清沢を宗門にとどめておく狙いがあったようです。

また、先述の通り、校長としての月俸は百円という当時としては破格の高給で、当初は非常に豪奢な生活をしていたようです。しかし、次第に非常に禁欲的な生活をするようになっていき、「黒衣黒袈裟の僧服姿で、食膳は麦飯一菜漬物、煮炊きはせず、酒はもちろん、茶すら飲まず、飲用には素湯もしくは冷湯を用い」ていました(山本前掲書)。

しかしながら、この試みは、本人の手応えとは裏腹に、清沢の身体を弱らせ、肺結核を患う要因のひとつになってしまったようです。

宗門改革運動

すべての教職を辞し、療養生活に入ることになるのですが、同時に同輩の若手僧侶らとともに、宗門改革運動に関与していくことにもなります。京都白川村に籠居したことから、白川党と呼ばれたこの一派は、宗門に様々な改革を迫りますが、多くの支持者を集めながらも、僧籍を剥奪されるなどし、最終的には、保守派に制圧される形で終息します。

浩々洞

除名処分を解かれた後、新法主・大谷光演の教導役となった清沢は、東京留学中の大谷を追って上京。この時、東本願寺からの要請で欧州視察に行くことになった近角常観宅の留守を預かる形で、居を定めます。ここにかつての教え子、多田鼎、佐々木月樵、暁烏敏らがやってきて、共同生活を営むようになり、これが「浩々洞」という清沢の私塾の始まりとなります。翌年にはここに楠龍造らも加わりました。彼らの共同生活はさながら古代の「僧伽」(サンガ)を彷彿とさせるものであったといいます。

『歎異抄』の再発見

清沢の功績のひとつに、『歎異抄』の再発見が挙げられることがあります。『歎異抄』は親鸞の弟子唯円が、師亡き後、本来の親鸞の思想と異なった解釈が広がりつつあったことを嘆いて著されたもので、悪人正機説として知られるものは、しばしばここから引かれています。今では非常に有名で、よく読まれ、関連書籍も多数出版されているのですが、ある時期まで『歎異抄』は危険な書であるとして、遠ざけられていました。

それは、この書が「悪をなせ」と読まれかねないことに加え、「『歎異抄』で語られる思想がもつ切れ味は、日本の歴史の中で思想的暴走を招く要因となってきたことも、否めない事実」だったからです(山本前掲書)。

安藤州一(清沢の門弟)は、清沢を「一方から見れば絶対自力の人だが、他方よりみれば絶対他力の人である。またその特色はエピクテタスと、『阿含経』と、ソクラテスと、『歎異抄』と、寒冷と温情と、森厳と寛容と、倫理的と超倫理的とが共に和合統一されている」といっています。『歎異抄』は、宗教の超倫理性を説く危うい吊り橋でもあったのです。

「精神主義」の読まれ方

このことは、清沢の後期の思想を代表する言葉「精神主義」にも繋がっていきます。山本前掲書は、精神主義に関する清沢の論考には少なからず、弟子たちにより加筆があることを突き止め、精神主義の解釈に注意を促しています。

清沢の精神主義や他力思想は、決して現状追認や、不合理性を疑いもなく受け入れることではなかったのですが、清沢の門弟や周辺の人物の中には、そうした誤解を広め、清沢の到達点であるかのごとく、喧伝した者もまた少なくなかったのです。そしてそうした者の中に、国家主義へと加担していく者が多かったのもまた偶然ではないでしょう。

真宗大学学監就任と辞任

浩々洞で共同生活を始めたのと同じ頃、清沢は真宗大学(現在の大谷大学)の学監(学長)に就任します。現在は京都にある大谷大学ですが、東本願寺内の学寮を起源とし、清沢らによって東京移転が進められます。これには京都の保守派と距離をおき、新都において西洋知を交えつつ、宗学を再構築する狙いがあったようです。

大学の事務方である主幹には、清沢の懐刀と呼ばれた関根仁応が就任し、研究院の学生の中から、楠龍造をはじめ、多田鼎、佐々木月樵、曽我量深らが予科講師に抜擢されました。

しかしながら、翌年には学監を辞することになってしまいます。これは特に大学運営をめぐって、関根と一部教職員や学生との間に溝が深まったことに起因します。関根の辞任に伴って、清沢も引責することになるのですが、これには関根の排斥を求めていた学生らも慌てて慰留したといいます。が、大学の方針をめぐって、飽くまで宗教大学であるべきとした清沢と、宗学のみに専心する高等遊民のように見られることを嫌い、普通の大学になるべきとした学生の間にズレがあったことも事実のようです。

清沢はこの年、学監辞任に先立って、子と妻を立て続けに失っており、「皆んな砕けた年」と失意をこぼしています。その翌年の1903年(明治36年)6月6日、清沢満之は41歳の若さで病没しました。

参考文献

山本伸裕『清沢満之と日本近現代思想』

吉田久一『清沢満之』

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楠龍造『龍樹の仏教観』

清沢満之の弟子であり、浩々洞の住人であった楠龍造の著作(復刻版)です。誤植の修正はもとより、旧字旧仮名を新字新仮名に改め、主に仏教用語に註記をつけて、原版より読みやすくなっています。

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