『龍樹の仏教観』の著者・楠龍造とはどんな人物でしょうか?
楠龍造(くすのき・りゅうぞう/和田龍造/和田鷗浦) 一八七四年(明治七年)、秋田県男鹿市の休宝寺に生まれる。浄土真宗大谷派の擬講。清沢満之(明治期の宗教哲学者)に師事。清沢の真宗大学(大谷大学の前身)学監(学長)就任に際し、予科講師に招かれ、私塾・浩々洞で、暁烏敏、佐々木月樵、多田鼎など、他の門弟らとともに共同生活を営む。一九〇四年に同大教授に就任。また雑誌『無尽灯』、『精神界』の編集に携わり、寄稿者としても活躍。一九〇五年、和田家の養子となり、秋田県能代市の西光寺に入寺する。一九三三年(昭和八年)没。主な著作に『宗教管見』(明治三十四年)、『他力宗教論』(明治三十七年)、『原人論講録』(大正九年)などがある。 (『龍樹の仏教観』著者略歴より)
楠は1874年生まれですから、『龍樹の仏教観』を出版したのは25~26歳の頃ということになります。25~26歳でこれだけの本が書けるというのには驚きます。これが明治知識人の力量なのでしょうか。
明治の教養人
余談ながら、鹿島茂『渋沢栄一』に次のような記述がありました。渋沢栄一の長女・歌子(1863年生まれ)について書かれた部分です。
竹橋女学校に通っていた歌子は、家から遠くなったということで退学し、漢学者の村井清から素読を習わされることとなった。歌子の学問というのは、これだけである。それで、簡単な英語の原書も読め、『ははその落葉』を流暢な雅文体で綴れたのだから、明治の上流階級の教養はたいしたものであると言わざるをえない。(『渋沢栄一 下 論語篇』)
楠の『龍樹の仏教観』も、バラモン教六派哲学から多くの仏典を行き来したかと思えば、最澄や親鸞のみならず、カーライルやロッチェといった西洋哲学にも言及しており、その知識量、研究熱心ぶりに驚嘆します。
楠龍造と曽我量深
ところで、清沢満之の後継者ともいうべき人物の一人に、曽我量深がいます。曽我は後年、真宗大谷派の「講師」(学階の最高位)に就き、大谷大学の学長も務めましたが、実は当初、清沢の「精神主義」に批判的な見解を示していました。
ところが曾我は、この批判論文を書いた翌年、明治三六年三月十八日、精神主義運動の拠点、浩々洞に入洞する。二十九歳の氏を導いたのは、友人の和田(楠)龍造であった。(安富信哉「曾我量深の未来観」大谷学会研究発表会要旨 https://otani.repo.nii.ac.jp/records/2053)
曽我は入洞以前から、徐々に清沢と「精神主義」への共感を高めていったようですが、入洞の決め手になったのは、楠の尽力だったのかもしれません。
吉田久一『清沢満之』(吉川弘文館)より
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