唯識〈超〉入門

楠龍造『龍樹の仏教観』サポートページ企画です。今回は唯識について取り上げます。

唯識派は、瑜伽ゆがぎょう派、瑜伽行唯識派などともいい、中観派と並んで大乗二大哲学学派のひとつに数えられます。龍樹を始祖とする中観派に対して、後発的に唯識派が生まれたと考えられがちですが、厳密には、唯識派の形成に触発されるかたちで、龍樹直系を自認する人々によって中観派が形成された、という方が正確なようです。(本連載「龍樹と中観派」参照)

唯識派の祖とされるのは、弥勒ですが、この弥勒が、いわゆる弥勒菩薩(当来仏としての弥勒)を指すのか、同名の別人を指すのか、はっきりしません。(本連載「弥勒について」参照)

ですので、一般に、弥勒に教えを受けたという、無著と世親という兄弟が唯識派の実質的な祖となります。

唯識とはどのような思想か

唯心論や唯物論、あるいは唯脳論などいった言葉がありますが、この用法は、華厳経の「三界唯心」(華厳経)という言葉を元に、Idealismに「唯心論」という訳語を当てたことに始まるとされます。唯識思想も、この「三界唯心」の思想に影響を受け、「しきのみ」という思想を確立しました。

龍樹は世の中のあらゆる事物が「くう」であると説きましたが、まぼろしやまやかしであれ、事物が存在しているように知覚したり、認識したりする作用は存在するわけで、こうした作用のことを仏教では「しき」と呼びます。

ただし、「すべては空でも識だけは実在だ」(識以外は空だ)と言いたかったのではなく、すべては空であるにも関わらず、我々に実在を感じさせる「識」についての探究が必要だということを言いたかったのだと思われます。いわばカントにおけるコペルニクス的転回のように、世界(対象)を知るためには世界(対象)を探求するのではなく、世界(対象)を認識する私(主体)の方こそを探求する必要があると考えたわけです。

唯識派が瑜伽行派とも呼ばれるのはまさにこのためで、唯識派の思想は瑜伽行の実践から生まれ、瑜伽行の実践を重視します。瑜伽=ヨガとは瞑想による精神統一のことであり、対象よりもむしろ内面を見つめることを目的とします。そして瑜伽行の実践によって、対象が存在しないこと(唯識無境)が知覚され、さらには対象も主体も存在しないこと(境識俱泯)が知覚されるようになるといいます。

では、唯識派は識をどのようなものと分析したのでしょうか。まず前提として、仏教では六つの識があると考えます。眼識げんしき耳識にしき鼻識びしき舌識ぜつしき身識しんしき意識いしきの六つです。ごく単純にいえば、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感と、対象を認識したり、推理したり、判断したりする知覚作用を合わせた六つの認識能力のことです。

唯識派による《識》研究

唯識派はこれら六つの識に加えて、独自に二つの識を考えます。第七の識をマナス(末那識)、第八の識をアーラヤ識(阿頼耶識)といいます。マナスは「染汚意ぜんまい」(汚れた意)とも呼ばれます。第六識の〈意識〉と似ていますが、マナスは、誤って自我の実在を錯覚する識であり、我執を生み出す識です。そしてマナスが自我と錯覚する対象がアーラヤ識です(マナスはアーラヤ識を正しくアーラヤ識と認識できず、自我であると誤認してしまうのです)。

第八識のアーラヤ識は唯識思想の最重要概念です。アーラヤ識は「蔵識」とも呼ばれる通り、アーラヤ(ālaya)には貯蔵する場所とか住処という意味があります。ヒマラヤ山脈の語源はサンスクリットのヒマーラヤ(himālaya)であり、hima(雪)+ālaya(蔵)から来ています。

アーラヤ識は七識の種子しゅうじ(素材)が貯蔵された場所であり、表面に現れてこないという意味では、潜在意識とでも言えるようなものです。七識はすべてアーラヤ識から生じ、認識対象もまたアーラヤ識から生じます。

唯識派によれば、修行を積むことによってマナス=自我意識の消滅を経験できるといいます。高橋晃一『心と実存 唯識』は『唯識三十頌』を解説する中で、次のように述べています。

自我意識がない状態がどのようなものなのか、想像することは難しいが、高位の修行者はマナスがない状態にとどまることができるらしい。ただし、これは瞑想や無我の観得など、特殊な状態において起こるものであり、瞑想から立ち戻れば、自我意識は再び起こる。このとき、自我意識はアーラヤ識から起こるという。修行者が瞑想の状態から戻った際に、その人格が維持されているのは、アーラヤ識が存在するためだと考えられている。

眠ったり、気を失ったりしても人格の一貫性が失われないのも同じ作用といえそうです。また、人格の一貫性を保証するもののひとつは記憶だと思われますが、アーラヤ識に貯蔵されるものを、記憶のようなものと想像するといいかもしれません。横山紘一『阿頼耶識の発見』は、「人が生まれたときからいままで行ってきた業の結果は、すべて阿頼耶識の中に記憶として貯蔵されています。もちろん、貯蔵された結果のほんの一部しか記憶として思い出すことはできませんが」と述べています。

第七識と第八識の意味

なぜ六識に加えて、マナス、さらにはアーラヤ識といったものが設定されるのでしょうか。第一にこれらは、無我説と、それでも存在する我執との関係を説明するための概念であると思われます。無我にもかかわらず、自我に執着するのはマナスの作用によるものとされます。

ではなぜ、マナスに加えて、さらにアーラヤ識が必要なのか。それは唯識派の人々が、デカルト式の「我思う、ゆえに我あり」という考えをとらなかったためでしょう。「我思う、ゆえに我あり」に対する古典的な批判として、「我思う」の我と、「我あり」の我が一致していないというものがあります。「我思う」の我とは、「我あり」として捉えられた対象ではなく、それを捉えた側のはずです。しかし、だからといって、そちら側の我を捉えようとすれば、それは直ちに対象としての我になってしまいます。「我思う、ゆえに我あり──と、我思う、ゆえに我あり……」というように、捉えた側を捉えようとしても無限に後退するループに突入してしまいます。

マナスは自身を自我と捉えるのではなく、アーラヤ識を自我であると捉えます。アーラヤ識を経験や記憶の貯蔵庫と考えれば、それを指して自我であると捉えるのはある程度納得できるかと思います。ただしそれは誤認、錯覚であるというのが唯識派の見解です。

アーラヤ識にはもうひとつ重要な機能が想定されています。それは輪廻の主体であるというものです。無我説を説きながら、同時に輪廻説をとるならば、一体何が輪廻しているのか、という疑問が生じます。唯識派は、この輪廻の主体をアーラヤ識であると考えました。

唯識の世界認識

次に、唯識派の世界認識について見ていきたいと思います。唯識派も龍樹の中道と空性を継承しています。すなわち、一切法は有でも無でもないという意味で中道であり、その実態は空である、というものです。別言すれば、世界のあらゆる事物は、存在するのでもなく、存在しないのでもなく、空であるということです。

それにもかかわらず、事物が存在しているように感じることを、唯識派は〈虚妄分別〉と呼びます。そしてこの虚妄分別は、〈能取〉と〈所取〉が存在するという誤認によって生じます。能取と所取とは、「捉えるもの」と「捉えられるもの」、主体と客体、主観と対象のことです。「我」(アートマン)と「法」(ダルマ)と言い換えることもできます。「我」とは文字通り「自我」のことであり、「法」とは事物の構成要素のことです。唯識派は、能取も所取も本当は存在せず、このことをもって空であると考えます。

同じ仏教徒でも、説一切有部と呼ばれる一派は、「法」の実在は認め、「我」は「法」の寄せ集めであり、実体としての「我」は存在しないという意味に、無我説を解釈しました。

これに対し、「我」も「法」もすべて実在しないと説いたのが般若経典であり、その影響の下、理論的に空の思想を確立したのが龍樹でした。唯識派は龍樹の思想を受け継ぎつつ、微妙な、しかしながら、のちに中観派との間で深刻な対立をもたらす、大きな修正を加えていきます。

唯識派に三性説というものがあります。これはものの見方、認識の仕方についての三つの段階を区別したものです。一つ目は「遍計所執性へんげしょしゅうしょう」で、これは我々の常識的なものの見方、事物が実在しているという、素朴実在論のような見方です。二つ目は「依他起性えたきしょう」で、これは事物がみな、他に依って生起しているという、関係論的な見方、仏教でいう「縁起」の見方です。三つ目は「円成実性えんじょうじつしょう」で、これは事物にその本質、実体はないのだという、「空性」の見方です。

龍樹(あるいは中観派)は、縁起=空であるとして、一足飛びに空性に辿り着きますが、唯識派では二段階に分離されています。ここに少々ややこしい事情、中観派と唯識派の対立をもたらす厄介な事情が潜んでいるように思われます。

先に虚妄分別と、能取と所取のことを述べました。能取が主体で、所取が客体のことであり、本来は存在していない、この二つを存在していると誤認することが虚妄分別なわけですが、ややこしいことに、唯識派は、ここに二重の主客を設定します。すなわち、虚妄分別という仮構する働き=主体と、仮構されたもの=客体があって、その仮構されたもののうち、分別するもの=主体=我と、分別されるもの=客体=法があるという捉え方です。

ここで唯識派は、能取と所取は存在しないのだが、虚妄分別は有る、という言い方をします。これは虚妄分別の実体視なのでしょうか? 高崎直道『スタディーズ 唯識』はそこには実体視とは異なる唯識派の意図があるといいます。

その意図というのは、虚妄に分別したり、またひるがえって、正しく判断する当体、瑜伽行者の実存、実践主体のことを眼目において、「虚妄分別は有る」と言っているのだろうということです。

修行によって自我意識を滅却できるのだとして、それを成し遂げたことをよしとして言祝いでいるのは、一体誰なのか。唯識派は、その主体を見ているということなのでしょう。しかしこの主体も実体を持っているわけではないということになるのだと思われます。

中観派との対立

しかし、中観派はこのような唯識派の空観を強く批判し、激しい論争が仏教思想史上において何度も繰り返されました。唯識派の空観は、事物の実体視を認めているのではないかと中観派は批判します。特に問題となるのがアーラヤ識です。意識が断絶しても自己同一性を保持する存在であり、それどころか、死してもなお継続する輪廻の主体というのは、自我実在論どころか、ゴータマ・ブッダが否定したバラモン教の「我」(アートマン)と全く同じではないか、というわけです(バラモン教ではアートマンを永久不変の実在と考えました)。

高崎直道はこの対立を次のように解釈します。

中観派では「縁起したもの」=「仮りに有りと表現されたもの」であるのにたいし、唯識派では「縁起したもの」=「依他起性」=心(アーラヤ識)と、「仮りに有りと表現されたもの」=一切の法と我、というように分けたところに見解のわかれめがあったと思います。
しかし、唯識説としてはアーラヤ識は縁起したものと言っているのですから、究極的に在るといっても、我のような不変の実在と見ているわけではなく、唯識性に入るというのは境も識もともに無いことだとしているのですから、その空性を否定しているわけではありません。

ただし、ただちに付け加えて、唯識思想にも変遷があり、識だけが実在するという唯識無境説もあったわけで、「逆に中観派は非有非無の中と言いながら、より無の立場に傾いていったのではないか」とも指摘します。

唯識派は瑜伽行の実践的な修行の中で生まれてきた思想であり、「瑜伽行者の実存や実践主体」が常に念頭に置かれるのに対し、中観派は飽くまで理論構築に関心が強いため、慈悲や菩薩の問題を考える場合にも、主体の問題が論じられることはありません。

もうひとつの争点

関連して、もうひとつ重要な対立が、如来蔵・仏性についての問題です。大乗仏教ではすべての人に悟りの可能性がある、つまりすべての衆生に如来蔵や仏性と呼ばれるものがある、と説かれてきましたが、唯識派は、人々の中には悟りの可能性がないもの(無性種姓)があると主張しました。この考えは大乗諸派からの批判を招くこととなりました。

楠龍造『龍樹の仏教観』でも、この対立について取り上げています。

成仏についてまた二種の思想あり。一つは一性皆成仏を主張するものにして、王公も賤民も、男子も女人も、智者も愚者も、善人も悪人も、その根底において、皆、仏性を有するものなれば、修行工夫によりて成仏し得べしと主張せり。この派の思想の根拠は、一切衆生に皆、仏性あり、そが根底は同一なりというにあり。一つは種性不同を主張するものにして、本来衆生に先天的種性あれば、あるものは声聞となるべきも、その他に成るを得ず。あるものは縁覚になるべきも、その他に成るを得ず。あるものは菩薩になるべきも、その他になるを得ず。あるものは仏陀となるべく、あるものは不定となるべく、あるものは常に迷界に彷徨すべしという。

これは五姓各別説と呼ばれ、人々に、菩薩種姓、縁覚種姓、声聞種姓、不定種姓、無性種姓の五つの先天的素質を見出します。ここでいう「常に迷界に彷徨」する運命にあるのが、無性種姓です。

竹村牧男『唯識の構造』は、無性種姓について次のように述べています。

あの玄奘が、唯識の文献をち帰るとき、この無性種姓の考え方のみは、母国の仏教者に受け入れられないであろうことを恐れ、師に削除を申し入れたという。おそらく、玄奘自身にもとうてい呑みこめないものがあったのだろう。しかし玄奘は師に強く誡められ、結局、その教証(『大乗荘厳経論』等)を将ち帰った。以後、法相宗では、五姓各別の教理は絶対のものとなったのである。日本では、その法相宗に属した徳一と、一切衆生悉有仏性の立場に立つ最澄が激烈な論争を展開したことも、周知のことである。

最澄と徳一の論争については以下を参照。

竹村は、唯識派が五姓各別説を唱えた理由として、(瑜伽行体験によるものではなく)「どうしても仏教になじめない者や、いかようにも大乗の精神を理解しえないものもいる現実を冷厳に見つめて」教学化したのではないかと推測しています。さらに唯識が後発の仏教として著しい特色を必要としていた、とか、菩薩乗の意義を強調するための逆説的な方便であった、などといった推察を加えています。

五姓各別説の意義をどう解するかは難しいところですし、唯識派内部でも様々な立場があるようですが、一つの要点として、唯識派は他派と比べて悟りに関して楽観的でないということがあるようです。

例えば、すべての人に悟りの可能性があるとする如来蔵思想においては、心真如(心の真実のあり方)に悟りの原動力があるとし、それは万人に備わったものとします。だとすれば、ある意味で、人は放っておいても悟りの道に進む、先天的素質を持っていることになります。これに対して、唯識派は、人は放っておけばアーラヤ識の作用によって迷妄に陥るものと考えます。ですから唯識派では、ありのままのあり方に逆らって、自発的に修行することが求められます。

如来蔵思想が本来の自分を開花させる〈自己実現の思想〉だとすれば、唯識派は堕落していく自分を乗り越える〈自己変革・自己超克の思想〉であると言えます。

こうした悟りたいという思いや、そのために努力しようとする意欲、それ自体が仏性の一部だとすれば、悟りたいとも、そのための努力をしようともしない人、すなわち仏性のない人(無性種姓)が想定されうる、ということではないかと思います。竹村も「大乗説にひかれ、大乗の道に志す者には、すでにその種姓を定める種子があったとしかいいようがないであろう。発心はすでに成仏を約束しているが故に、初発心時便成正覚でもある」と述べています。

以上、些か乱暴ながら、唯識派の思想を概説してみました。

参考文献

高崎直道『スタディーズ 唯識』

高橋晃一『シリーズ思想としてのインド仏教 心と実存 唯識』

横山紘一『阿頼耶識の発見』

竹村牧男『唯識の構造』

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