十大弟子と仏典結集

楠龍造『龍樹の仏教観』のサポートページです。今回はブッダの十大弟子と仏典結集について取り上げます。

十大弟子

ブッダには、1250人以上の弟子がいたとされ、そのうち代表的な仏弟子として、四大弟子や十一大弟子など、様々な選定がありますが、最もよく知られているのが次の十大弟子とその評価です。『維摩経』を元にしていることが多いようです。

サーリプッタ(舎利弗)智慧第一
​マハー・モッガラーナ(大目犍連)神通第一
マハー・カッサパ(大迦葉)頭陀第一
スプーティ(須菩提)​解空第一
プンナ(富楼那)説法第一
カッチャーヤナ(摩訶迦旃延)議論第一
アヌルッダ(阿那律)天眼第一
ウパーリ(優波離)持律第一
ラーフラ(羅睺羅)密行第一
アーナンダ(阿難)多聞第一

サーリプッタマハー・モッガラーナは、ブッダの教団の中で特に中心的な人物だったようです。二人は幼馴染で、ともに懐疑論者のサンジャヤ(六師外道の一人)の弟子でしたが、ブッダに帰依して、同門250人を引き連れて仏弟子となりました。

人数ではカッサパ三兄弟とその弟子たちに劣りますが、実質的な教団運営はサーリプッタらが主導するようになったといいます。ふたりともブッダ入滅前に亡くなりました。

マハー・カッサパは第一回の仏典結集の際に、三蔵中、経蔵を担当したことでよく知られます。カッサパ三兄弟と区別するために、マハー(「大きい」、「偉大な」の意)をつけます。頭陀行に長けていたため、頭陀第一と評されますが、要するに清廉、清貧ということです。ブッダ亡き後の教団の統率者ともいわれ、後述のアーナンダの後見人のような存在でした。

第一回仏典結集において、三蔵中の律蔵を担当したのがウパーリで、論蔵を担当したのがアーナンダとされます。ウパーリはカピラ城の宮廷理髪師だったといわれ、戒律をよく守ったので持律第一と評されます。アーナンダはブッダ晩年の侍者であり、最後の旅にも随行しました。ブッダの生前には悟りをひらくことができず、のちにマハーカッサパの教戒を受けて悟りをひらいたといいます。

スプーティは解空第一と言われ、ブッダの空の思想をよく理解していました。このため、大乗の般若経典では特に重要視されるようになり、ブッダがスプーティに対して、説法する形式の経典がつくられました。

アヌルッダはブッダのいとこです。ブッダの説法中に居眠りしたことをたしなめられ、以後不眠の誓いを立てますが、それが原因で(?)、失明してしまいます。これによって却って天眼を得たといいます。天眼とは、一切の事象を見通す智慧の眼のことで、一種の神通力のこととも考えられます。ブッダの臨終にどれだけの人が立ち会ったか、詳細は不明ですが、アーナンダとともに、アヌルッダがいて、嘆き悲しむ弟子たちを慰め激励したとされます。

ブッダの血縁者がもう一人いて、ラーフラはブッダの息子です。ブッダの実子であるために、他の弟子たちをあなどる傾向があったとされる一方で、戒律をよく守り、学を好んで、誰よりもよく学んだともいわれます。

プンナは説法第一と評され、巧みな説法によって、仏教の伝道に功績がありました。カッチャーヤナも伝道活動に功績がありましたが、彼は議論第一と評され、特に哲学的議論、教理の難解な部分を人々に説いて聞かせたといいます。

第一回仏典結集

ブッダの死後、ブッダの教えの散逸を防ぐため、マハーカッサパが中心となって、「結集」(けつじゅう)が行われます。結集には五百人の阿羅漢(高僧)が王舎城(マガダ国の中心都市)に集まったといいますが、具体的にどこで行われたかについては諸説あります。

ヴァイバーラ山の七葉窟とする説、ヒッパラ窟やソーンバンダル窟とする説、あるいはヴィブラ山の洞窟や霊鷲山とする説です。

福田徳郎『遺跡にみる仏陀の生涯』p.231より

この時の結集は、文字に起こすものではなく、マハーカッサパらが誦出し、それに聴衆たる阿羅漢たちが同意を与えるという形で進められたようです。先述の通り、「経」をマハーカッサパが担当し、「律」をウパーリが、「論」をアーナンダが担当したとされますが、「論」の成立は、もっと後代になってからだと考えられています。

『八千頌般若経』や『大智度論』では、文殊菩薩と弥勒菩薩が、アーナンダとともに、大鉄囲山に集合し、大乗三蔵を結集したとします。これはもちろん伝説的・神話的な所伝ですが、三千大千世界を囲む大鉄囲山など、仏教の特異な宇宙観については、稿を改めて紹介したいと思います。

なお、プンナはこの結集に参加せず、南山に籠もったといいます。下山後に、結集を承認したものの、自分はブッダから直接聞いた教えに従うと述べたといいます。これを教団分裂の始まりと見る向きもあれば、戒律についてのアーナンダの寛容主義と、マハーカッサパの厳格主義との溝に分裂の萌芽を見出す向きもあります。

あるいはまた、ウパーリの古い戒律主義に対し、マハーカッサパとアーナンダは、新しい普遍主義的なものを志向した、との見方もあります。

二回目以降の仏典結集

二回目以降の結集は、南伝北伝など諸資料により相違があるのですが、仏滅後100年(あるいは200年)に行われたとされます。戒律をめぐる解釈を統一するために行われましたが、結局まとまることなく、却って上座部と大衆部の分裂を生み出しました(根本分裂)。北方所伝ではこれをアショーカ王の時代としていますが、南方所伝はアショーカ王時代の仏典結集は第三回の結集であるとされます。アショーカ王はマウリア朝の王で、仏教の庇護者として、仏教徒に慕われてきました。楠龍造『龍樹の仏教観』では、キリスト教におけるコンスタンティヌス1世になぞらえています。

第四回の結集は、カニシカ王の時代に行われたとされますが、史実性には乏しいとされているようです。カニシカ王はクシャーナ朝の王で、アショーカ王に次いで、仏教の庇護者として慕われてきました。

『龍樹の仏教観』ではカニシカ王がサカ族出身であるかのように書かれていますが、正確なところはよくわかりません。クシャーナ朝は、クシャーナ族(クシャーナ人)の王朝ですが、従来、カニシカ王は、先代の王であるカドフィセス1世、2世の王統と断絶していると考えられていました。しかし、ラバータク碑文の発見により、カニシカ王がカドフィセス2世の息子であることがわかりました。

サカ族は、イラン系の遊牧民で、インドではサカ族、ギリシアではスキタイ系(インド・スキタイ族)、中国では塞族と呼ばれました。

カニシカ王には、アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa; 馬鳴)、チャラカ(Caraka; 遮勒)、マータラ(Māṭhara; 摩啅羅)という三智人が仕えていました。馬鳴は、仏教の学僧で『ブッダチャリタ』(仏所行讃)の著者として知られます。『大乗起信論』も馬鳴の作とされますが、疑問視されています。楠龍造『龍樹の仏教観』では、『大乗起信論』の思想を馬鳴の思想として扱っているようです。

馬鳴の師にパールシュヴァ(脇尊者)という人がおり、彼を上首として第四結集が行われたとされます(世友を上首とする説もあり)。

根本分裂と大乗仏教

前述の通り、第二結集の後に、教団は上座部と大衆部に分裂し、それがさらに、南伝では18、北伝では20の部派に分かれていきました。しかし、大乗仏教の台頭以降にも、教団として存続したのはごくわずかでした。今日ではインドから南に伝わり、スリランカや東南アジアに広まった、いわゆる南伝仏教は、部派仏教、アビダルマ仏教、テーラヴァーダ仏教(上座部仏教)と呼ばれています。

仏教大学講座 第3(仏教年鑑社)を元に作成

楠龍造『龍樹の仏教観』では、「大乗教理の萌芽大衆部にあらわれたるは、教理史上掩うべからざる事実なり」と述べていますが、一方で、立川武蔵『仏教史』は、「『革新派』であるとされる大衆部から大乗仏教が生まれてきたとは一概にいえない」とし、「上座部系の部派のいくつかは明らかに大乗佛教的な考え方を有していた」とします。

仏教大学講座 第3(仏教年鑑社)を元に作成

いずれにせよ、紀元一世紀ごろになると、これまでのアビダルマ仏教と異なる、大乗仏教と呼ばれる一派が形成されていきます。そしてその大乗仏教の理論的な大成者が龍樹です。その業績は専ら、主著『中論』における、空思想の哲学的な基礎づけに注目されますが、浄土教の祖、密教の祖としての側面もあります。

大乗に特徴的な、浄土思想、阿弥陀如来信仰は、紀元前からあり、『般舟三昧経』や『阿弥陀経』などは、龍樹以前に成立していたものと思われます。

密教(仏教タントリズム)は、4〜5世紀ごろに現れ、徐々に広まっていきます。密教は大乗仏教の一部として現れたものと思われますが、11世紀ごろになると、顕教 / 密教というように、仏教を密教と非密教とに区別する考えも出始めました。

参考文献

立川武蔵『仏教史』

中村元『仏弟子の生涯』

上下巻の普及版もあります

福田徳郎『遺跡にみる仏陀の生涯』

前田行貴『インド佛跡巡礼』

『仏教大学講座 第3』

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