J・S・ミル『功利主義論』(奥田伸一訳)のサポートページ企画の「『功利主義論』に言及された人々」第五回です。『功利主義論』で言及された人物とその文献について紹介していきます。今回はエピクロスについて取り上げます。
「〔功利主義批判者は〕人生には快楽よりもさらに高級な目的はないと考えること──欲求と追求の対象として、快楽よりよく、より高貴なものはないと考えること──を、まったく下劣で卑しく、豚にこそふさわしい原理であると指摘する。豚とは、大昔にエピクロス派の人々が軽蔑して、たとえられたものであった。」(『功利主義論』)
エピクロスは、快楽主義の代表的な論者です。快楽主義は、古代ギリシア語で「快楽」を意味するヘドネ(ἡδονή:hedonē)にちなんで(倫理的)ヘドニズムともいいます。
エピクロス派への蔑称として選ばれた豚。なぜ豚なのか。豚の生態からその表象について調べてみました。
『ブタ礼賛』は豚のもつ象徴的な意味について、次のように述べています。
「昔から、豚のもつ象徴的な意味には、きわだった二面的価値がある。豚の評価は、善と悪、賞賛と非難、賛美と侮辱の間でゆれてきた。象徴的な意味として強調されるのは、第一に破壊力──本来畑を荒らすだけで、人をめったに襲わない猪にはあてはまらないが──であり、第二に不潔さ、大食い、宗教的な不浄、そして酒酔いや性的不道徳などの悪徳であり、第三に──喜ばしいことにも──幸福と多産である。けれども多くの人は、知らないうちに、豚を嫌っていることが多いし、豚に対する汚くて憎らしい動物という烙印は、ずっと押されたままである。(……)結局、多くの人が豚に対して不快感を感じる理由は、猪に由来する理解できない行動、つまり、泥浴びや土を掘り返すのが好きであることや、栄養上欠くことのできないミネラルを取るために土や糞を食うこと(食異性)のためだろう。」(『ブタ礼讃』pp.103-104)
『豚肉の歴史』は、ユダヤ教やイスラム教で豚肉が禁忌とされた理由として、ブタが腐肉食動物であることや、古代ヘブライ人にとって、ブタが動物分類上、明確に定義できなかったこと、また遊牧民にとって群れで移動できないブタが(羊や山羊などと違って)飼育しづらい動物と考えられたことなどを挙げています。
『ブタの動物学』によれば、ブタの消化器官は基本構造がヒトによく似ており、「雑食の帝王」であるといいます。また、泥浴びは、「ヌタ(沼田)を打つ」、「ノタ打ち」などと呼ばれ(「のたうち回る」の語源)、水や泥をからだ全体に塗りつけ、蒸発による熱放射を行うための行為であり、飼育環境や管理が不適切である場合に、糞尿によって代替することがあるといいます。それゆえ、本来、ベッドとトイレを分ける習性のある清潔好きの動物であるブタが不潔とされるのは気の毒であると述べています。
エピクロスはストイックだった?
ブタに対する誤解と同じく、エピクロス派にも大きな誤解があるようです。
「エピクロス派の人生論として知られているものに、知性や感情、想像力または道徳感情といった快楽が、単なる感覚よりも非常に高い価値として、割り当てられていなかったわけではないのである。」(『功利主義論』)
とミルが述べるように、エピクロス派を単に、本能のまま肉体的な快楽に溺れる者と捉えるのは早計といえます。エピクロスは、アタラクシア(ἀταραξία:ataraxía 静けさ、恐怖の欠如)とアポニア(ἀπονία:áponos 痛みの欠如)を幸福の極地と考え、過剰と耽溺はそれらに反するものであると認識しました。にもかかわらず、エピクロス派はその正反対のものと誤解されてきました。
「エピクロス哲学は誕生いらいたくさんの誤解やなかんずく無類の中傷のまととなり、今日でも、”エピキュリアン”という形容詞のどことなく放縦な意味のなかにその痕跡をみることができる。」(『エピクロス哲学』)
「パンと水で満足し、宴会をしたいから小さなチーズの壺を送るようにと弟子の一人に手紙をかき、禁欲主義に近い質素な生活をした人が、いったいどうしてこのような悪意にみちた伝説をうみえたのであろうか?」(『エピクロス哲学』)
これにはエピクロス派と対立するストア派やキリスト教からの悪宣伝もあったようです。
エピクロス哲学と功利主義の違い
シジウィックの分類に従えば、エピクロスの快楽主義は、「利己的快楽主義」であり、功利主義は「普遍的快楽主義」ということになります。エピクロスの快楽主義が飽くまで自己の快楽の極大化を図るのに対し、功利主義では他者の快楽も問題になります。
シジウィックは一応、功利主義に軍配を上げるものの、自己犠牲が義務化されることを懸念し、両者の折衷を図ろうとしました。
参考文献
『ブタ礼讃』(H.‐D.ダネンベルク, 博品社, 1995)
『豚肉の歴史』(キャサリン・M.ロジャーズ, 原書房, 2015)
『ブタの動物学』(田中智夫, 東大出版会, 2019)
『エピクロス哲学』(ジャン・ブラン, 白水社 文庫クセジュ, 1960)
『ヘレニズム哲学』(A. A. ロング, 京大学術出版会, 2003)
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