楠龍造『龍樹の仏教観』のサポートページ企画です。今回はブッダについて取り上げます。
ブッダの名称
ブッダ(Buddha)とは、buddhi(悟り)と同じ語根buddh-を持つ動詞の過去完了形で、「目覚めた人」を意味します。このため、ブッダは飽くまで一個人を指すものではありませんが、一般的にはゴータマ・ブッダ一個人を指します。ゴータマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダールタ)という固有名もありますが、その初出は(仏滅後、およそ500年後に著された)馬鳴の『ブッダチャリタ(仏所行讃)』であるとされ、正確なところは不明です。ちなみにゴータマは、母方の姓(氏族名)であったようです。
釈迦と呼ばれる場合もありますが、これはゴータマ・ブッダの出身部族であるシャカ族(シャーキャ族)から来ており、釈迦牟尼(「シャカ族の聖者」の意)が縮まった呼称でしょう。
このほか、釈尊、世尊、大徳、浮屠、善逝などなど、実に多くの呼称があります。
ブッダの出生年代
ブッダが生まれたのは紀元前5世紀から6世紀と推定されています。ウィルヘルム・ガイガー(ドイツのインド学者)は、ブッダの生存年代を紀元前563~483年と算定しており、一方で、宇井伯寿は紀元前466~386年と考えました。両者にはおよそ100年の開きがありますが、ブッダの生存年代ははっきりとはわかっていません。
十六大国
ブッダが生きていた時代のインド(北インドからデカン高原のガンジス川中流域)は、十六大国と呼ばれる諸国が群雄割拠していました。アンガ、マガダ、カーシー、コーサラ、ヴァッジー、マッラー、チューティー、ヴァンサー、クル、パンチャーラー、マッチャー、スーラセーナ、アッサカー、アヴァンティ、ガンダーラ、カンボージャの十六カ国です。このうち、特に強大であったのが、マガダ国とコーサラ国の二大強国です。十六大国の多くは王制でしたが、部族共和制をとる国もありました。ブッダの出身国は十六大国に数えられるような大きな国ではありませんでしたが、部族共和制の国であったとされ、またコーサラ国の属国であったともいわれます。
四大聖地(四大仏蹟)
ブッダの育ったカピラヴァストゥ(迦比羅城)がどこにあったのか、正確にはわかっていません。ネパール領内のティラウラコットとする説と、インド領内のピプラハワとする説があります。ブッダは、両者から30キロほど離れたルンビニ(藍毘尼)で生まれました。マーヤー夫人が出産のために里帰りする途上であったといわれます。ルンビニは四大聖地のひとつとされ、アショーカ王によって建立された石柱碑が残っています。
『龍樹の仏教観』には出てきませんが、四大聖地の二つ目は、成道の地(悟りをひらいた地)であるブッダガヤです。
四大聖地の三つ目・ミガダーヤ(鹿野園)は、初転法輪の地です。ブッダが説法することを転法輪(法輪を転がす)といい、特にブッダが悟りをひらいて最初にした説法を初転法輪といいます。この時の説法相手は、かつてともに苦行をおこなっていた修行仲間であるコンダンニャ、ヴァッパ、バッディヤ、マハーナーマ、アッサジの五人です。彼らはブッダの最初の弟子になります。
ラージャグリハ(王舎城)は、マガダ国の中心都市で、ブッダの活動拠点でした。四大聖地ではありませんが、八大聖地とする場合には、含まれます。八大聖地の残りは、サヘート・マヘート(コーサラ国の中心都市である舎衛城)、サンカーシャ(忉利天での説法を終えてブッダが降りてきた場所)、ヴァイシャーリー(入滅の三ヶ月前まで過ごした安居の地)です。
象頭山(伽耶山)は、ブッダガヤとガヤ市の間にある山(丘)で、ブッダが修行や説法をした場所です。ガヤは、カッサパ三兄弟とその弟子千人がブッダに帰依した地であり、これによって教団は一挙に大所帯となりました。
四大聖地の最後は、クシナガラ。ブッダ入滅の地です。
参考文献
立川武蔵『仏教史 第1巻 仏教の源泉』
前田行貴『インド仏跡巡礼』
福田徳郎『遺跡にみる仏陀の生涯』
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楠龍造『龍樹の仏教観』
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