『ハンチバック』を読みました

第169回 芥川賞受賞作、市川沙央『ハンチバック』を読みました。

著者自身、重度障害者で、作中の主人公も重度障害者。しかし、お行儀よい障害者像を裏切って、冒頭から「都内最大級のハプバに潜入したら港区女子と即ハメ3Pできた話」から始まります。

読書のバリアフリー

猥雑さと皮肉たっぷりのユーモラスな文体ですが、呑気に読める小説ではありません。まずは著者が会見でも語っていた読書のバリアフリー問題。

私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、──5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。(『ハンチバック』)

読書のバリアフリー問題については、『電子書籍アクセシビリティの研究』という本を読んだときに、その感想をこのブログに書きました。→cf.「電子書籍の過去と現在」

また、湯浅俊彦『電子出版学概論』の感想でも読書のバリアフリーについて触れています。→cf.「『電子出版学概論』を読みました」

障害者の命

この件は、読む前から知っていたのですが、それはまだ本書のテーマの入り口に過ぎないと思いました。主人公は重度障害を持ちながら、人工妊娠中絶を望みます。そこには重層的な意味が込められているように思えます。

当時、中絶規制の法改正の動きを巡って、障害者を産みたくない女性団体と殺されたくない障害者団体が激しくぶつかり合っていた。殺す側と殺される側のせめぎ合いは「中絶を選ぶしかない社会」を共通のヴィランとすることでアウフヘーベンして障害女性のリプロダクティブ・ライツにまで辿り着き、安積遊歩のカイロ演説を生んだ。1996年にはやっと障害者も産む側であることを公的に許してやろうよと法が正されたが、生殖技術の進展とコモディティ化によって障害者殺しは結局、多くのカップルにとってカジュアルなものとなった。そのうちプチプラ化するだろう。  だったら、殺すために孕もうとする障害者がいてもいいんじゃない?(『ハンチバック』)

1994年、安積遊歩(安積純子)の国連国際人口・開発会議NGO会議での演説をきっかけに、1996年には、優生保護法における優性条項が削除され、母体保護法へと形を変えることになりました。しかしながら、引用の通り、出生前診断などの問題は未だ燻り続けているわけです。おそらく、この問題に容易に結論を出せる人はいないでしょう。本書は読者にどうしようもない居心地の悪さを与えます。

終盤の謎

本書は終盤に謎を残します。まず突如として、旧約聖書エゼキエル書38章16節~39章8節の抜粋が引用されます。そしてその後に続く風俗店で働く大学生「紗花」による語り。これは一体何なのか。

エゼキエル書の当該部分は、終末の日に、神に逆らうゴグという勢力がイスラエルの民を襲撃するが、神によって撃退されるであろうといった内容です。

「紗花」の語りについては、ある程度納得のできる解釈を得たのですが、エゼキエル書がわからない。この解ききれぬ残余を残す感じがまたいいなと思いました。また、このエゼキエル書のキリスト教モチーフと、主人公「釈華」の名前をはじめとする仏教モチーフがどう関わるのかも興味深いところです。

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