J・S・ミル『功利主義論』(奥田伸一訳)のサポートページ企画の第三弾「『功利主義論』に言及された人々」の第三回です。『功利主義論』で言及された人物とその文献について紹介していきます。
ある有能な著述家によって鋭く指摘されているように、同じような人物が、時としてまさに同じ人物が「快楽とは功利のことだと説明されると、功利主義は冷血で誰にも実践できないといい、功利とは快楽のことだと説明されると、功利主義は官能的で誰にでも安易に実践できてしまうといって」功利主義を非難するのである(『功利主義論』)
ここで「ある有能な著述家」とされているのは、トマス・ラブ・ピーコック(Thomas Love Peacock, 1785-1866)であるとされています。ミル著作集(CW)でも、関口訳や川名山本訳でもそのように述べられています。
しかしなぜまた、名前が伏せられているのか。これは奥田伸一訳の訳注で述べられている通り、この引用元が、『ウェストミンスターレビュー』に、ピーコックが匿名で発表した論文だったからです。
“THE EPICUREAN By Thomas Moore” (The Westminster Review vol. 8 October 1827)という、トマス・ムーアの『エピキュリアン』という小説についての書評記事です。
Google Booksで閲覧することができます。
ピーコックは、父ミル(ジェイムズ・ミル)の友人でもあり、東インド会社の同僚でもありました。父ミルが文書審査部長を辞めた後、後任で同職についたのがピーコックでした。そしてピーコックが辞めた後にJ・S・ミルが同職につきます。また、ピーコックは小説家、詩人としても知られ、詩人のシェリーとも親交がありました。
「功利」という用語
ミルに引用された部分
ピーコックの指摘はまさに至言でありますが、「功利」(Utility)という言葉は、やはり一般に馴染みにくく、理解の妨げになっているのかなと思います。非力ながら、私なりに調べた範囲でUtilityについて解説してみたいと思います。
Utilityは、経済学用語としては「効用」と訳されることが多く、Utilitarianismも「効用主義」と訳すべきとする意見もあります。
英語圏ではどれくらい馴染みのある言葉なのか、定かではありませんが、『英語語義語源辞典』(三省堂, 2004)には、「形式ばった語」とあります。意味としては「実用性や有用性」に加えて、公共施設(Public utilities)や、電気水道ガスなどの家庭用諸設備といった意味があるようです。
複合語としては、utility program(ユーティリティ・プログラム)やutility room(ユーティリティ・ルーム)、utility knife(万能ナイフ)、utility player(攻守に活躍するような万能選手)などがあります。
ユーティリティ・ルームというのは日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、「掃除機、暖房器具、洗濯機などを入れおく部屋」だということです。生活の根幹をなす、地味ながら実用性のあるもの、といったイメージでしょうか。
このことから、芸術や音楽は、功利ではないという(ミルからすれば、誤った)解釈が生まれたのでしょう。
清水幾太郎の愚痴
『倫理学ノート』において清水幾太郎はこんなことを述べています。
「もし私が愚痴をこぼすことが許されるとしたら、ベンサムは別の言葉を選ぶべきであったのであろう。utilityの代りに別の言葉が使われていたら、また、せめて、功利の代りに別の訳語が用いられていたら、事情は幾らか変わっていたに違いない。快楽や苦痛という用語もそうである。その代りに、もっと一般的な言葉が用いられたら、事情はかなり変っていたであろう。というのは、ベンサムを読めば読むほど、快楽や苦痛という言葉が、それが暗示する感覚主義的な狭さを越えて、実に広い意味に用いられていることを知るからである。(……)快楽というのは、知的、美的、宗教的、倫理的……な満足を含み、同様に、苦痛というのも、知的、美的、宗教的、倫理的……な不満足を含んでいる」(『倫理学ノート』pp.140-141)
utilityは、「効用」として経済学に導入され、特に新古典派経済学や厚生経済学において花開きました。ベンサムは新古典派経済学の効用概念を先取りしていた、と言えなくもないのですが、事情はやや複雑です。ベンサムにおいて、utilityは物が有する客観的な性質であったのに対し、マーシャルやピグーにおいては、物と人との関係において成立する性質へと変化します。しかしながら、その後の経済学はむしろベンサムのutility概念に近いものとして,
なおかつ、それどころか、実体性を喪失した概念となって、発展していくことになると清水は指摘します。これは要するに快楽説から選好説への変化を指しているのですが、ここでの議論としてはやや踏み込みすぎたきらいがありますので、このあたりで。
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