『功利主義論』に言及された人々(2)カント

J・S・ミル『功利主義論』(奥田伸一訳)のサポートページの一環として、「『功利主義論』に言及された人々」と題し、シリーズとして、『功利主義論』で言及された人物とその文献について紹介していく企画の第二回です。

今回はイマヌエル・カントについてです。カントは、倫理学や政治哲学の分野で、功利主義(目的論)と双璧をなす義務論の主要な論者として知られています。

『人倫の形而上学』か『基礎づけ』か

これらの思想家を批評することは、私の現在の目的ではない。しかし実例として、その中で最も影響力のある、カントの系統的な著作『人倫の形而上学の基礎づけ』に言及しないわけにはいかない。(『功利主義論』)

原文では”Metaphysics of Ethics”となっており、これは通常、カントが1797年に公刊した『人倫の形而上学』(『道徳形而上学』ともいう)のことなのですが、1785年に公刊した、似たようなタイトルの『人倫の形而上学の基礎づけ』(『道徳形而上学の基礎づけ』や『道徳形而上学原論』ともいう)と解釈するのが一般的なようです。

川名雄一郎・山本圭一郎訳「功利主義」(『功利主義論集』所収)では、訳注において、19世紀のイギリスでは、この英語タイトルで『人倫の形而上学の基礎づけ』が出版されていたことが指摘されています。

また、当然ながら、内容的にも『人倫の形而上学の基礎づけ』とする方が妥当だという判断があります。

『人倫の形而上学の基礎づけ』は、『人倫の形而上学』に先立って著されたものであり、「法論」と「徳論」からなる『人倫の形而上学』に対する、文字通りの「原論」的な位置づけにあるものと言えます。

ミルのカント批判

カントの思想体系は、哲学史上の道標のひとつとして、長く残るであろうが、この非凡なる人物は、先の論文の中で、道徳的義務の起源と基礎として、普遍的な第一原理を設定している。それはこうである。「汝の行動がすべての理性的存在者によって法則として採用されるように行動せよ」。(『功利主義論』)

最後のフレーズは、『人倫の形而上学の基礎づけ』における、どの箇所を示すのか、正確には不明ですが、いわゆる「第三の定言命法」に当たる箇所と推測されます。形式に注目した第一の定言命法と、内容に注目した第二の定言命法を統合することで第三の定言命法が導かれます。

おのおのの理性的存在者は、自分を自分の意志の全信条を通じて普遍的に法則を立法するものと見なして、この観点から自分自身と自分の行為を評価しなければならない(カント「人倫の形而上学の基礎づけ」『カント全集7』岩波書店)

ミルは先の引用に引き続いて、次のようにカントを批判します。

しかし、この格言から具体的な道徳的義務を推論し始めるとき、ほとんど奇怪にもカントは失敗する。なぜなら、すべての理性的存在者が、無謀にも不道徳な行為規則を採用することが、論理的に(物理的にとは言わないまでも)不可能であり、背理となることを示せていないからである。カントが示しているのは、そのようなものを採用した結果は、誰ひとり陥ることを選択しないようなことである、ということでしかない。(『功利主義論』)

関口正司訳『功利主義』(岩波文庫)では、訳注において、不道徳な行為規則を採用した結果を「誰も歓迎しないのは、各人の幸福を損ねる結果だからであり、つまり、効用の基準から見て望ましくないという意味になる、ということである」と解説しています。

しかしながら、中山元『自由の哲学者カント』などを参照しますと、やや疑問に感じる批判ではあります。中山はカント『基礎づけ』の限界(あえていえば「失敗」)を次のようにまとめています。

この書物〔『道徳形而上学の基礎づけ』〕の最後でカントは、「道徳的な(モラーリッシュ)な命法の実践的で無条件的な必然性を理解することはできない」と嘆いています。そしてそれが理性の限界であると語っていました。人間はたしかに感性界だけではなく、叡智界にも属し、それによって超越論的な自由が可能であるかもしれません。ただしこれはただの仮説として考えられるというだけで、道徳的な命法の必然性も、人間の超越論的な自由も、絶対的で必然的なものとしては証明することができなかったのです。(中山元『自由の哲学者カント』)

要するに、『基礎づけ』の限界は、道徳的な命法(と超越論的な自由)を、経験的な法則としてしか示せていないのではなく、むしろ理性的な法則としてしか示せていないところにある、ということだと思われます。

余談ですが、中山によればこの限界を乗り越える「大逆転」をもたらしたものこそが、『実践理性批判』ということになるそうです。

追記:サンデルによる解説

ミルのカント批判について、マイケル・サンデルが『これからの「正義」の話をしよう』において、解説していたので、紹介しておきます。

サンデルは、「返す当てもないのに、必ず返すと約束して借金するのは正当化できるか」という例を出します。カント倫理学にならえば、嘘の約束が定言命法と一致するか、すなわち自分が行動の基準としようとしている格律が、普遍的法則となるかを考えることになります。

「嘘の約束をしてもよい」が普遍的法則となってしまったら、誰も約束を信じなくなり、約束を守るという社会規範が損なわれてしまいます。だから嘘の約束はダメなのだと結論すると、これは一見、悪い結果をもたらすからダメなのだと言っているように聞こえます。

マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』書影

「これは思想家ジョン・スチュアート・ミルが、カントに対して展開した批判でもある。しかしミルはカントの論点を誤解していた。カントの考えでは、自分の格律を万人にあてはめ、かつ自分もその格律に従って行動し続けられるかどうかを考えることは、それがもたらす結果を予測するための方法ではなく、自分の格律は定言命法と一致しているかどうかを知るための試験だ。嘘の約束が道徳的に誤りなのは、それがひいては社会の信頼を損なうからではなく(そうなる可能性は大いにあるが)、他者の要求や欲望よりも、自分の要求と欲望(この場合は金)を優先しているからだ。つまり普遍化という試験は、自分が取ろうとしている行動が、他のすべての人の利益や状況よりも、自分の個人的な利益と状況を優遇するものかどうかを調べる強力な道徳的方法なのである。」

こちらの方がミルの誤解がより明瞭に理解できると思います。

『基礎づけ』邦訳文献

『人倫の形而上学の基礎づけ』の翻訳はたくさん出ています。『全集』以外を挙げます。

大橋 容一郎訳、岩波文庫、2024年

「君の行為の格律が君の意志を通じて普遍的な自然法則になるかのように、行為せよ。」カント哲学の導入にして近代倫理の基本書。人間の道徳性や善悪、正義と意志、義務と自由、人格と尊厳、共同体と規則などを考える上で必須の手引きである。訳語を精査し、初学者の読解から学術引用までを考慮した新訳。

御子柴善之訳、人文書院、2022年

内容紹介(出版社より)

「あたかも君の行為の格率が君の意志によって普遍的自然法則になるべきであるかのような、そのような行為をせよ。」 経験によらない純粋な倫理はいかにして可能か 一見では納得しがたい命題と、印象的なフレーズ、数々の具体例で読む者を魅了する、いまなお倫理学の最重要書にして、カントによるカント入門。最新の研究を織り込み、未来の読解へと開かれた訳語を採用した、精緻な新訳がここに誕生。丁寧な訳注、詳細な索引を付す。関連する重要文書「啓蒙とは何か」も収録。

熊野純彦、作品社、2013年

内容紹介(「BOOK」データベースより)

倫理・道徳の哲学的基盤。自由な意志と道徳性を規範的に結合し、道徳法則の存在根拠を人間理性に基礎づけた近代道徳哲学の原典。新訳決定版。付:『倫理の形而上学の基礎づけ』。

中山元訳、光文社古典新訳文庫、2012年

内容紹介(「BOOK」データベースより)

「君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない」。多くの実例をあげて道徳の原理を考察する本書は、きわめて現代的であり、いまこそ読まれるべき書である。

土岐邦夫他訳、中公クラッシクス、2005年

宇都宮芳明訳、以文社、2004年

内容紹介(「BOOK」データベースより)

『道徳形而上学の基礎づけ』は、言うまでもなく、『実践理性批判』とならんで、カントの実践哲学の精髄を伝える代表作である。ページ数では『実践理性批判』よりも少なく、それにわれわれにとって身近な道徳問題を出発点としているので、これまで哲学や倫理学を学ぼうとする学生諸君の手引きとしてよく読まれてきた。大学の演習においても採用される頻度は多いはずである。訳者も北大でこれまですでに三回にわたってこの書物を演習で取り上げ、学生諸君と一緒に読んできた。そういういきさつもあって、一度自分で納得できる全訳を試みたいと念じていたが、それが完成したのが本書である。

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