『功利主義論』サポートページ企画。J・S・ミルの『功利主義論』に言及された人々について解説しています。
「ナザレのイエスの黄金律に、われわれは功利主義倫理学の完全な精神を読み解く。おのれの欲するところを他人に施すこと、そしておのれのごとく隣人を愛することは、功利主義倫理学の理想の極致である。」
J・S・ミル『功利主義論』奥田伸一訳
ミルはこのようにイエス・キリストを高く評価するのですが、彼は決して敬虔なキリスト教徒というわけではありませんでした。むしろ「信仰を捨てたのではなく生まれてから一度も持ったことがないという、英国ではごく稀な人間」であると自称しています(『ミル自伝』)。父であるジェイムズ・ミルは、スコットランド長老派の信条を教え込まれて育ちながらも、(無神論ではなく)不可知論の立場をとりました。そうした生育環境のためか、ミル自身は生まれながらの不信仰者だったのです。
人間イエスとキリスト教
ミルが評価するのは、キリスト教ではなく、イエス個人であり、しかもそれは「神の子」イエスではなく、現実の人間としてのイエス、史的イエス、ナザレのイエスでした。
ミルは「有神論」(『宗教三論』所収)の中で次のように述べています。
「イエスの生涯と言葉には、深い洞察と結びついた個人的独創性の刻印がある。科学的厳密さとはまったく違ったことが目指されている場所で科学的厳密さを見いだそうとする無駄な期待を捨てるなら、その洞察によってこのナザレの預言者は、彼が聖霊を受けたことをまったく信じない者の評価のなかでさえ、人類が誇ってよい最高の天才のランクに達しているのである。」
J・S・ミル「有神論」(『宗教をめぐる三つのエッセイ』所収)
このように、ミルはイエスを高く評価しながらも、イエスを超越的な存在として捉えることなく、飽くまで、人間の中で最高の存在であるとしたのでした。そしてまた、ミルはイエス個人の思想と、キリスト教倫理とを峻別し、教義としてのキリスト教倫理には批判的な態度をとります。
矢島杜夫『ミル『自由論』の形成』は次のように述べています。
「ミルがあえてイエス・キリストその人から、その後に成立したキリスト教倫理を区別したのも、キリスト教倫理には、神の名において宇宙の中心たらんとする利己的な野心があるとみなしたからである。キリスト教倫理にそのような神をも恐れぬ(?)傲慢不遜な態度がみられる限り、利他的な功利主義の精神と触れ合うことはない。」(矢島杜夫『ミル『自由論』の形成』)
矢島杜夫『ミル『自由論』の形成』
ミルによれば、イエス個人の利他主義的な思想に反して、キリスト教は利己主義的であるといいます。というのは、キリスト教においては、一部のエリートを除いて、一般大衆には、ただ教義を受動的に受け入れ、義務を果たすだけの盲従が求められます。その教義は、神の絶対性の下に無謬とされ、吟味されることなく、権威に反する異端は排除されます。
こうした不寛容さは、人間を誤り得る存在として、多様な意見と多様な個性を擁護する『自由論』の著者であるミルには承服し難いものでした。
カルヴァニズム批判
とりわけミルの批判対象になったのが、カルヴァン派です。16世紀の宗教改革者ジャン・カルヴァンの神学理論は、あらゆることが神の意志によって予め決定されているとする、「予定説」を説くことに特徴があります。
ミルは『自由論』において、カルヴァン派について次のように言及しています。
「カルヴァン派によれば、人間の大きな罪悪のひとつは自分の意志をもつことである。人間がなしうる善は、すべて服従のうちにある。選択をしてはならない。命ぜられたことは行わなければならず、それ以外のことは行ってはならない。『義務でないものはすべて罪である』。人間の本性は根本から腐っているので、人間の内側でその本性が抹殺されないかぎり、救いはない。
J・S・ミル『自由論』斉藤悦則訳
こういう理論を抱く者にとっては、人間のいかなる才能、素質、感性をおしつぶそうと、それは少しも罪ではない。人間にはただ、神の意思に自分をゆだねること以外、何の能力も必要ない。また、神の意思をもっと有効に果たすこと以外の目的のために、自分の才能を使うのであれば、そんな才能などは、ないほうがよい。
以上がカルヴァン主義の理論である。」
カルヴァン派において自由意志は存在せず、神への盲目的な服従のみが道徳になる、ということにミルは極めて否定的な態度をとったのでした。
あるいはまた、カルヴァンの倫理観が極めて厳格で、宗教的規律や社会秩序を優先する抑圧的なものであったことや、三位一体説を批判する「異端者」セルヴェトゥスの処刑事件に見られるように、カルヴァンの姿勢が宗教的寛容を著しく欠くものであったことも、自由思想家としてのミルと相容れないものでした。
ミルもついに宗教者になった?
イエスを神の子と捉えることを拒否し、キリスト教倫理にも否定的な態度をとったミルですが、彼の死後に出版された『宗教三論』において、ミルはキリスト教に接近したと言われます。それがどの程度のものであったのか、最後にこの点について触れておきたいと思います。
深田弘『J.S.ミルと市民社会:ネオ・プルーラリズムの提唱』は次のように述べています。
「ミルは現実の問題を精神的な領域に拡大してゆくのであるが宗教論の第二論文にみられるようについに人間教を説くにいたったのである。ここでは人間は利他的行為による精神的な自己充足という精神的報償を求め合う没我者による世界が構想されるのである。この段階では彼の宗教観も倫理的なものの支柱ないしは補強的な役割を果すものであったが、結局、第三論文「有神論」においては神の存在を人間の精神的経験から認め、第二論文で示した人間教は「経験的神」を通してキリスト教と一致するとミルにいわしめているのである。経験論者、実証主義者ミルもついに宗教者になったのであった。」
深田弘『J.S.ミルと市民社会:ネオ・プルーラリズムの提唱』
ここでいう「人間教」(「人間性の宗教」「人間の宗教」ともいう)とは、ミルがオーギュスト・コントの「人類教」の思想から継承した概念で、神の観念に依拠せず、「人類への奉仕」に基づいた、旧来の宗教に代替する、新たな宗教のことです。
『宗教をめぐる三つのエッセイ』の「訳者解説」において、訳者の大久保正健は次のように述べています。
「ミルのキリスト教に対する肯定的な評価は、すべて功利性の観点からの査定であり、キリスト教は『人間性の宗教』への橋渡しとして、人類の道徳的改善に寄与したという主張である。従って、ミルが信仰体系としてのキリスト教の外にとどまっていたことは明らかである。」
大久保正健「訳者解説」『宗教をめぐる三つのエッセイ』所収
小泉仰『ミル』は、「有神論」がミル晩年の論文であり、人生の終盤に差し掛かって、彼がある種の境地に至ったことを認めています。
「このミルの変化のなかにわれわれは、人生の晩年に達したミルが人間中心主義より人間を超越した宗教の世界へ傾斜していこうとする姿勢を読みとることができる。しかも、ミルが『有神論』のなかで霊魂の不滅性に道徳的・実践的意味を認めたことは、かれが人生の最終段階において信仰の第一歩にふみ入れたことを示している。」
小泉仰『ミル(世界思想家全書)』
しかしながら、それが宗教者への転向と言えるかというと、必ずしもそうではないようです。
「このようにして、ミルは最終の著作といわれる『有神論』のなかでいっそう宗教へ接近し、ある種の信仰にふみだしたのであるが、それは、神の手によりとらえられた自己という神中心的なキリスト教的心境とくらべるならば、宗教に近づきながら最後まで人間的立場をすてきれなかったミルの姿勢を示すものである。」(同上)
こうしたミルの到達点を、矢島杜夫『ミル『自由論』の形成』は、「人間の宗教」と『功利主義論』との関わりで敷衍します。
矢島は、ミルが信仰とも無神論とも区別されたものとして宗教を構想し、「超自然的な存在の領域を、信仰の領域から単なる希望の領域へと移」したのだと考えます。ミルは宗教の有用性を希望の領域、すなわち「想像力と希望によって人間精神や活動的エネルギーを高めることができる」もの、あるいは「人間性を向上させるもの」にこそあるとし、「人間の宗教」にそれを見出します。
そしてこの「人間の宗教」は、公平無私の利他性を体現するものとして、ミルの功利主義道徳に結び合い、「かくてミルの「人間の宗教」は、『功利主義論』の中に見出せるナザレのイエスの黄金律とも結び合うのである」と結論します。
参考文献
矢島杜夫『ミル『自由論』の形成』(御茶の水書房)
深田弘『J.S.ミルと市民社会:ネオ・プルーラリズムの提唱』(御茶の水書房)
小泉仰『ミル(世界思想家全書)』(牧書店)
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