中山元訳『功利主義』の検証

日経BPクラシックスの一冊として、J・S・ミル著、中山元訳の『功利主義』が2023年11月に上梓されました。

小社ではこれに先立ち、2022年7月に奥田伸一訳『功利主義論』を上梓しており、この本では、過去に出版されたミルの『功利主義論』のすべての邦訳を参照し、「訳者覚え書」として、奥田訳との比較検討を行っています。

中山元訳は、その後に出版された初の翻訳ということになります。そこで、ここでは「訳者覚え書」を参考にして、ごくごく一部ではありますが、中山訳を検証してみたいと思います。

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ここで例として取り上げたいのは、第三章第二段落の最後の部分です。この部分は既訳の中で、「原理の神聖さが奪われる」とする訳と、「原理の適用の神聖さが奪われる」とする訳とに分かれています。奥田訳はこれを「原理の神聖さが奪われる」と解しますが、中山元訳では「原理の適用の神聖さが奪われる」と解します。同じ部分をそれぞれ引用しておきます。

【中山元訳】「こうした原理が、そしてこうした原理を適用する営みが、人々の心のうちで聖なるものと思われるようになるまでは、このような原理の適用というものには神聖さが欠けていると感じられてしまうのである」

【奥田伸一訳】「原理が適用されたものが帯びているのと同程度の不可侵性を、あらかじめその原理自体も帯びた上で、人々の心の中にある、というのでもない限り、常に原理の神聖さのいくらかは、剥ぎ取られてしまうように思われる」

以下、いずれが妥当であるかの検証を進めますが、はじめに英文法や英文解釈上、どのように解釈すべきかを見て、次に、文脈的にどう解釈すべきかを見ていこうと思います。

英文解釈の見地から

争点となるのは、次の文章の最後の方に出てくるthemとtheirが何を指すのかです。

それらをits applicationsだと解釈すれば「《原理の適用》の神聖さが奪われる」となり、principlesだと解釈すれば「《原理》の神聖さが奪われる」となります。ちなみに、前者のits(その)は、少し前に出てくるthe principleのことであり、この点については争いがないものと思われます(その適用=原理の適用)。

この文章はwhich以下がprinciplesの説明となっており、さらにその中に、コンマに挟まれる形で、「~でない限り」(unless)という条件文が挿入されている、という構造になっています。

推測ですが、《原理の適用》とする解釈は、themとtheirが複数形であるため、複数形の単語を探したとき、少し前に出てくるthe principleだと単数なので、its applicationsのほうだと考えたのではないでしょうか。しかし実際には、このthe principleよりもさらに前に出てくるprinciplesのほうを指しているのです。

文脈上の見地から

次にミルはここで何を言おうとしているのか、検討してみましょう。第三章冒頭からミルは功利性原理のサンクションについて語っています。功利性原理に従わなければならない強制力、拘束力はあるのか、ということです。

しかし、そもそも人々は馴染みのある倫理的なルールについては、それに強い規範性、不可侵性、神聖性を感じても、本来それらが依って立つはずの原理についてはそうではないと言います。

例えば、「殺人や詐欺はしてはならない」というルールは馴染みがあり、決して犯してはならないという強い拘束力が働きます。しかしそれが、例えば最大幸福原理に基づいて導かれたルールだとしても、最大幸福原理については同じような強い拘束力が働かないのです。

だから、功利性原理に従わなければならない強制力、拘束力がないという功利主義への批判は、何も功利主義だけに当てはまるものではなく、他のどんな原理についても同じことが言えてしまうわけです。

そして、どんな原理であれ、その原理が、原理が適用されたもの、つまり馴染みのあるルールと同じくらいの神聖さを予め帯びている、というのでもない限り、原理の神聖さは常に毀損されてしまいます。

ミルは、上絵のように、《原理》と《原理の適用》を、建物の土台と上物の関係として説明します。そして本来なら、土台が頑丈なほど、上物の頑丈さを担保することになるはずにもかかわらず、土台よりも上物のほうにより重要性を感じてしまうことになります。

ここで改めて、中山訳と奥田訳を確認してみましょう。

【中山元訳】「こうした原理が、そしてこうした原理を適用する営みが、人々の心のうちで聖なるものと思われるようになるまでは、このような原理の適用というものには神聖さが欠けていると感じられてしまうのである」

【奥田伸一訳】「原理が適用されたものが帯びているのと同程度の不可侵性を、あらかじめその原理自体も帯びた上で、人々の心の中にある、というのでもない限り、常に原理の神聖さのいくらかは、剥ぎ取られてしまうように思われる」

《原理の適用》にはすでに神聖さがあるのですが、《原理》にはそれと同程度の神聖さがないことが問題なのです。ですから神聖さが欠けているのは《原理》のほうです。また前半部分についても、as much … as~ですから、「~と同じくらい多く」です。

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この他にも、奥田伸一訳『功利主義論』では、既訳との相違と解説が読めますので、是非ともご一覧いただけますようにお願い申し上げます。

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