楠龍造『龍樹の仏教観』サポートページ企画です。今回は「廃仏毀釈」について。
「明治の仏教史は先ず神仏分離廃仏毀釈より始まる。」(辻善之助「明治仏教史の問題」)
近代日本仏教の受難
廃仏毀釈とは、神道国教化に伴って、1868年(慶応4年)の神仏分離令を契機とする仏教排斥運動で、1870年(明治3年)をピークに、1876年(明治9年)ごろまで続いたとされます。
特に、廃仏毀釈が激しかった地域として、水戸、佐渡、松本、苗木(岐阜)、伊勢、土佐、隠岐、宮崎、鹿児島などがあります。これらの地域では、寺院や仏像仏具などの破壊が行われました。廃仏毀釈によって9万あったと推定される寺院は半減し、廃仏毀釈がなければ、日本の国宝は現在の三倍はあったといわれます。
具体的事例
「『神佛分離史料』によると、後鳥羽上皇の御座所であった源福寺は、本尊の大日如来像のほか、後鳥羽上皇の御手作の仏像や、京都の公家から納められた大般若経など貴重な寺宝を多数有していた。しかし、血気盛んな正義党の若者らはこれらをことごとく破壊。あろうことか、その上から糞尿をかけたという。」(鵜飼秀徳『仏教抹殺』p.142 *正義党とは、京都で儒学を学んで、隠岐で私塾を開いた尊皇攘夷派の中沼了三に影響を受けた青年らが名乗った集団)
「路傍の石仏などは首を刎ねられ、井戸などに投げ入れられた。現在、隠岐国分寺の境内の一角に、こうした石仏が集められている。また、路傍に転がる地蔵はどれも首を刎ねられた跡があり、見るも無残な姿である。」(『仏教抹殺』p.143)
神仏習合の歴史
神道と仏教が同一の信仰体系に属する、神仏習合の歴史は古く、八世紀にまで遡り、1000年以上もの歴史があります。中世に入ると、習合が進み、「本地垂迹」や「権現」といった体系化・理論化もされていきました。
「本地垂迹」とは、日本の神々は、仏が姿を変えて、「権現」=仮の姿で現れたものとする考え方で、興味深いのは、本来の姿(本地)は仏であるということです。つまり神道は仏教に対し、(理論的には)従属的な関係にありました。
江戸後期になると、儒学者による仏教批判や、復古神道を唱える国学者によって、排仏思想が醸成されていきます。これに加え、寺請制度の問題もありました。寺請制度は寺社による、民衆の身元保証制度のようなものですが、幕府の権力構造の一部に組み込まれていました。このことは民衆にとって、寺社が自分たちの側でなく、権力の側の存在になっていたという側面がある一方で、権力側にとっても、既得権を保持する疎ましい存在でもあったようです。
なぜ仏教排斥が起こったか?
神仏分離令についての明治政府の意図は、神仏判然であって、廃仏毀釈や仏教排斥ではなく、過激化を諌めてすらいたのですが、暴走に歯止めがかかることはありませんでした。ではなぜこのような暴挙が起こってしまったのでしょうか。
鵜飼前掲書は、四つの要因を挙げます。
- 権力者の忖度
- 富国策のための寺院利用
- 熱しやすく冷めやすい日本人の民族性
- 僧侶の堕落
このうち、興味深いのは4の僧侶の堕落で、鎌倉仏教以来、体制側に組みしていった、仏教界に対する、民衆や神官らの反発も要因の一つであったようです。それは皮肉にも仏教界に綱紀粛正、自浄作用を促すこととなったという側面もあります。
その後の仏教
廃仏毀釈以後の仏教はどうなったのでしょうか。
「この時〔廃仏毀釈の時〕に当って奮然蹶起せる者は、仏教界の碩学大徳先覚者であった。彼等の中には内にあって弾圧の要路高官の蒙を啓くもの、或は遠く欧米各国の地を踏破し、彼の地の宗教制度、学術文物を視察研究し来たるものもあった。その結果、仏教自体から、神仏分離併存の主張となり、教団内政の整備となり、宗門教育の施設となり、次期仏教徒の覚醒時代に移る端緒を見るに至った。」(土屋詮教「明治仏教史」)
大きな損失を被りながらも、その後の仏教は、着実に勢力を回復し、復興していきました。明治30年代に入ると、仏教は宗門やアカデミズムにおいて、学術研究の対象として一層盛んになり、根本的、哲学的、史的研究が隆盛を極めるようになりました。
参考文献
鵜飼秀徳 『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』
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